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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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鷹雛、後宮の催事にて歌を紡ぐ(後編)

あの騒がしくも猛々しく駆け抜ける野の風を、どうかもう一度。
作業BGM:『落涙/石川智晶』

※その覚悟なければ 出会うことのない本当の 脱ぎ捨てた自分の力に出会えない
 鷹の爪は潰え、堕ちた雛はずっと待っていた。
 冷たい泥の中で悪夢を見つめ続けながら不死の焔を育て続けて。
 



「神在月に置きましては、夏の日和も例年と違わず。目立つ干ばつ、水害にも襲われず。農村にはたわわな実りが豊穣の神より約定されること――」
 各方面から挙げられる昨年とまったく同じ報告の数々を、八束は禁軍黄龍席の末席で聞き流していた。平坦な声を紫辰殿の大部屋に垂れ流すのは、上座から一段下がった大公たちが抱える豪奢な束帯を纏った官吏である。山と海の神を讃え、豊穣を訴えるその裏には、例年通りにたらふく税を取り立てても問題は起こらないという主義主張である。軍税、地税、地方税、神税。名前が変わるだけでそのすべてが民から吸い上げられる血肉に代わりない。
 八束はこっそりと細い息を吐いて、大仏のように表情ひとつ動かさない上座の主上を覗き見る。自分も随分と老いたと思っていたが、極上の珠と漆を重ねた紫檀の椅子に、最上の絹で折り込まれた反物で誂えられた御引直垂。腰を下ろす老人が、八束の目に“座っている”のではなく、椅子と御引直垂に挟まれて“ただ在るだけ”に見えるようになったのは何年前の定例の儀であっただろうか。
 珠ひとつ、金箔ひとつ、少々飾りが過ぎるのではないかとは思うが、国の頂点たる後宮に置いて豪奢絢爛を誇るのは特に悪いことではないと八束は考えている。以前、その是非を今は亡き主君に訊ねられた際、八束はこう答えた。
『国の頂点に立つものが、みすぼらしい身形であれば、それは清廉を讃えられるやもしれません。しかし、その様を国外の者が目にしたとあれば、金や権力の使い方を知らぬと侮られる可能性にもなり得ます。斯様な国を讃えることはあっても味方につけて益があるとは思わせにくいでしょう?』
 主君は成程、とひとつ頷いた後に、「じゃあ、誰に見られたいとも思わず鎖国しやがるくせに金だけ毟りたがる連中は褌だけでいいなあ」と豪快に鼻で笑ったのだった。思えば、主君が存命であった頃の定例の儀や朝賀は騒がしく揉めたものである。
 風来坊であった鷹爪は、それはもう、揚げ足取りの名人のようなものであった。官吏から豊穣の神やら、綿津見の賜り物という言葉が飛び出せば、豊穣の女神を信奉する朱雀穂村や綿津見を始祖に持つ青龍海神に水を向け、ならば日頃に米を育て、海を守り続けた民に国として褒賞を授けなければ、と言い出した。国境の軍備強化の為に国税を、と語る大公が居れば定例の儀の直前に珠と金糸で絹の束帯を仕立てたその姿を差し、その張羅を脱げば済む話だろう、と高らかに笑った。どんな文言が火種になるかわかったものではないので、あちらもこちらも随分、戦々恐々したものである。
 ――あの時分、主上はまだひとつひとつを考えてくださっていた、はずだ。
 抜け殻のようにただそこに在る今上帝の昏い瞳を捕えながら、八束は奥歯を噛み締める。何事にも動じずどしりと腰を据えることと、起こること聞こえる声見えるものからすべてを塞いで居座ることはまったくの別物である。
 ――風が、欲しい。
 息苦しさを覚えた八束は、不意にそんなことを思った。紫檀に掛けているあの主上の形をした像と、自らの心を殺す為に挙がり続ける報告を聞き流すだけの八束。座る場所が違うだけで、そこに一体、どれだけの差があるというのだろう。
 ああ、あの御方は風であったのだ、と今更ながらに八束は思う。
 願はくは、命が尽きるまで、風でありたかったのに。
 ――今年も定例の儀は何事もなく進められそうですな。
 ――ああ、彼の将が御存命であられた頃なぞ酷いものだった。早う、雅やかな宴に移りたいものだ。
 ――今年はあの雛が参内というから、また妙な言を吐かれるかとひやりとしたが、さすが青龍の少将。すっかり手懐けて居られるようですな。
 前主君に“兎”と称された八束の耳は、小声で零れる音を拾い上げる。勝手なことを。なんと勝手なことを。膝の上で手のひらに爪を立てながら、思う。
 貴様らに何が解るのだ。
 貴様らに国の何が解る。
 あの御方の心の内の何を理解しようとした。
 あの子の築き上げてきた他者との絆の何を理解出来るというのだ。
 私は、あの子の……何を、私は、解ってやれているのだろうか?
 不意に泣きたくなって、堪える為に面を上げた。その瞬間。同じ位の段。青龍海神のほんの末席。無意識に見てしまった視線の先で、
 ――!?
 鳶色の若い瞳が、きらり、と閃いた気がした。
「以上を持ちまして、本年の政も昨年通りに――」
 かたん。
 この後のささやかな歌宴のためと誂えられた膳が、軽く叩かれる音が響いた。上段の御簾がわずかにざわめき、首を揃えていた禁軍と官吏、控えていた女官や侍女の目が丸くなる。そこには朱色の盃に並々と注がれていた甘露の酒を、何の躊躇いもなくこくり、と喉に滑らせる少年の姿があった。勿論、少年より上座に掛ける青龍大将、副将、彼の青龍の少将すら一口と杯には口をつけていない。
 その目の前で、少年は射抜くような視線に晒されながら一杯の清酒を仰いでみせた。
 無論のこと。それは禁軍のみならず、上座に座る大公や帝への無礼な行為に他ならない。報告を読み上げていた官吏も呆気に取られてそちらを凝視し、盃を置いた鳶色の瞳に掴まった。
「北は霊峰、六海山。火入れなしの生酒。今日の宴をご用意されたのは耀遵大公と聞き及んで居ります故、これはこれはとても良き品で御座います。さすが、お目が高いと評判の大公殿でいらっしゃる」
「……鷹雛の君。主君を讃え下さったこと、光栄の限りに御座います。しかし、」
「さてはて。官吏殿は清酒が造られる過程をご存知か?」
「は……?」
 さしもの事態に困惑して、諌めようとした官吏の言葉を遮って雛は問いかける。八束は自身の膳に置かれた清酒のかすかな波を覗いて、はっと気がついた。
「御噂では大公殿はこの清酒をこよなく好み、ここ一年ほど宴の際には必ずこちらを贔屓にしていらっしゃるとか。彼の酒蔵は神税として清めの酒を捧げることでも高名。市井にも名が広まっているようですね」
「鷹雛ど」
「ところで。清酒とは米を削りに削って搾り出される頓に贅沢な品。通常の沙羅酒で七割、吟醸酒なら六割から五割、この大吟醸なれば五割以上を削る必要があるとか。そして清酒を生酒として飲むには十月(とつき)から一年かかる」
「そ、それが、何か……?」
「だのに、北方の米蔵は昨年と代わりないのでしょう? 大公殿、市場にも流通し、神税としても納められているこの生酒を一体、どこでこんなにも手に入れたものなのやら、と。どうかその商才を凡将たる雛めにも御披露くださいな」
 ざわり。
 静観に徹していた八束の肌にも鳥肌が走るほどの波が、否。風が紫辰殿を駆け抜けた。
 清酒を飲み干したばかりの、妙に濡れた唇がゆらりと歪む。
 生酒、とは出荷の前に火入れせずに届けられた酒だけを指す。つまりは一度も保存処理をされず、醸造されたばかりの贅沢な酒だ。だから、この盃の酒が昨年や一昨年のうちに造られたということはない。大公はここ一年ほど、同じ生酒を宴に振る舞っている。その間の神税や、市場への流通にも変化はない。なら、その五割以上を削らねばならぬはずの贅沢な米は、一体、どこから出されたものなのか――。
 自身を謙ってみせた鷹雛の真の問いは、そこにある。
 ――確かに、大公殿は必ずその生酒を。
 ――い、いや、しかし前の年に豊作であった年があったのでは。
 ――だが、北方は近年、伽羅との諍いで戦災復興せねばならん年があったはず。
 駆けた風は安穏を貪っていた官吏たちの脳に火を灯していく。一瞬にして槍玉に挙げられた耀遵大公はといえば、烏帽子を整えながら脂汗を掻く官吏を小声で諭している。しかし、良い打開策――という名の逃げ口上――が見つからないのか、官吏の方は忙しなく瞳を上下左右に彷徨わせている。
 くくっ、と耳に入った微かな笑いに振り向けば、平然と答えを待つ鷹雛の傍らで羽織を鼻の位置まで挙げた青龍の少将が肩を揺らし、そのまた隣では頭の青龍大将が困惑気味ながらも、ひどく懐かしそうな目で下座を眺めていた。
 ――懐かしい?
 不思議にぽろり、とまろび出た単語に八束は唖然とする。そうだ。懐かしい、風が、吹いたのだ。
「……聖め、とんでもねぇ置き土産を遺して逝きやがった」
 ぽつり、と隣で呟かれたその震えた声も、もう懐かしい名前を口にした。
 ざわめきが消えない紫辰殿。ただひたすらに御引直垂と紫檀の椅子の合間で黙し続ける今上帝。時の止められた広間の中で、ぱっと上段の御簾が細く開けられた。そのわずかな変化に、水を打ったように広間が鎮まった。扇で面を隠しながらも、広間のほぼ中央に現れた女性を目にして八束の背に氷の粒が這った。
 御簾が開いたのは僅かであるのに鼻につく甘すぎる香。上物の櫛で丹念に梳かされた垂髪。金糸銀糸を惜しげなく使った豪奢というには華美が過ぎる重ね衣。彼の元・主君がこの場に居たとしたら、あからさまに舌打ちをしていただろう。
 ――伴少納言(とものしょうなごん)……。
 しずしずと上座から下りてくる女性の弓張り月のような目を観察しながら、八束は臍を噛む。弘徽殿の女御――つまりは耀遵大公の母だ――に仕える随一の少納言が、公で御簾から姿を現すなど、嫌な予感しかしない。八束の懸念はど真ん中に当たってしまったようで、彼女は下座の隅に位置する鷹雛の前でぴたり、と足を止めた。
「お初にお目にかかります、鷹雛の君。御方さまより、我が宮を讃えてくださった御礼と致しまして、歌をお贈りしたいとのことです。どうぞ、ご好意としてお受け取りください」
 八束はさっと自身の顔が青褪めるのを感じ取った。歌。鷹爪と真っ向から対立関係に合った弘徽殿から贈られる歌なぞ、その薄ら寒い笑み通りにろくなものではないと八束は知っている。そして彼の父親には歌の才がさっぱりというほど無かった。
 勿論、八束はそれを不満に思ったことなど一度も無い。頭が持てぬものは、配下である自分や恭二郎が補えば良かったし、むしろそれを誇りとすら感じていた。しかし、今の八束では彼を庇うことなど出来ないのだ。
 八束の焦燥など余所に、伴少納言は無情に扇の内に書かれた歌を読み上げた。

『千切れ散る 紅葉の錦 うつくしき 焔のごとく 誰(た)が櫛にも似ぞ』

 鈴の鳴るような声で転がされた歌に、八束は目の前が真っ赤に染まるのを体感した。文官でなかったら、もっと血の気の多い性格であったなら、目の前の膳をひっくり返していたかもしれない。いや、現にそうならない勢いで、隣に座していた気配から、そして鷹雛のすぐ近く、大将席からも瞬間的な憤怒が立ち上った。
 今日が神在月であることを今ほど呪ったことはない。紅葉鮮やかな紅葉が敷き詰められた後宮。千切れて舞うあの紅葉の葉に準えて、まるで焔のようだと例える歌。しかし、下の句は。
 面を上げた鷹雛の、伸ばした髪――櫛がはらりと揺れる。紅葉の紅のように、そして彼からすべてを奪っていった、あの忌々しい凶火のように。
 すべてを失って三年。それが十一で、目の前で家族を灰にされた者に贈る歌であってたまるものか。
 再び昏い静寂に支配された場に、最初に立ち上がりかけたのは彼の大将である海神龍牙であった。膳の縁に指をかけ、腰を浮かし、平素にはない眦を吊り上げた形相で少納言へと口を開きかけて。
 その大きな身体をすっ、と男扇で制した者がいた。青龍の少将を挟んで少納言と対峙していた鷹雛の君、その人であった。虚を突かれたように龍牙も、そして少納言も訝しげに眉を寄せた。ふと伏せた鷹雛の肩が、小刻みに震えている。怒りを隠し切れていないのか、と八束は思った。しかし、違った。震えは次第に大きくなり、やがて高らかな哄笑へと変わったのだ。
 何を想っているのが茫然とする少納言を見据えると、少年はさも可笑しそうに、どこか投げやりに、そしてさっと虫でも払うような仕草で扇を振った。
「庭の面は からくれなゐに 染まりけり 幸いにして 櫛火にあらず」
 口元には哄笑を、されど瞳には静謐なただひたすらに透明な野心を灯しながら、挑発めいて飛び出した歌に八束はぶるりと身体を震わせた。広間は今度こそ、しん、と静まり返った。
 どれほど、その場が凍っていたのだろう。刹那であったかもしれないし、長くあったかもしれない。唐突に上座の御簾からばきり、という荒々しい音が響き渡り、続いてがしゃん、と膳をひっくり返したような騒音が耳についた。ばきり、という荒い音はその昔、月森靜がやるせなさに扇を折ったあの音とよく似ているようで、しかし、こちらの方が品がないように聞こえた。
 摺り足であるはずなのに、その衣擦れが聞こえてくるほど苛立った様子で御簾の向こうから気配が消えた。残されていた少納言は、蒼白のまま慌てて御簾に戻り、そのまま気配を断った。
 逆手の歌、である。
 紅葉で唐紅に染まった後宮の庭。その紅が、紅葉の紅で良かった。櫛のような火ではなくて。
 これが窮鼠のようなか細い声色で、苦し紛れに吐き出されたのであったなら、弘徽殿は満足げに鷹雛を鼻で笑ったであろう。だが、実際には投げやりに、虫でも払うついでとばかりに、彼はそう詠ったのである。その意は挑発――いつかこの櫛のような火が、この後宮を焼き尽くす。そんな、宣戦布告であったのだ。
 御簾の向こうが空になると、慌てふためいた女官や侍女、さらには大公たちまでもが忙しなく動揺し始めた。息子である耀遵大公はあからさまに面を青白くさせて、定例の最中であるにも関わらず、こそこそと席を立った。
 八束は笑いを止めて何事もなくただ涼やかに座るだけの少年から目が離せなかった。身体の芯が熱い。否。胸中に燻っていた火種に、風を送られた気分だった。込み上げてくる熱に、衝動に、じっと耐えていると、
「宮様っ!」
 広間を劈く怒声が鼓膜を貫いた。我に返って振り返れば、上座に在った御簾が、風に押し開けられたかのように宙に舞っている。その中に飾り金の眩い椅子に掛けた淡い重ね着の袿に濃紫の打袴の女性が、扇を面にこちらを――下座を――見ていた。いや、見ていた、なんて可愛らしい表現では足りない。凝視し、見定めていた、というのが正しい。その皇に連なる鮮やかな紫水晶が、顔を上げた鷹雛の鳶色と重なって。
 ひゅん、と飛んだ風に焔の髪が攫われた。長く伸ばされた髪を結い上げていた榛の羽根飾りが吹き飛ばされて、かろん、と落ちる。衝撃に一度、顔を下げた鷹雛が再び面を持ち上げた、そのときだった。
 誰も、息を出来なかった。
 誰も、動くことは出来なかった。。
 誰の声も、八束の耳には入って来なかった。
 だって、風に嬲られた髪の合間から獲物を探し求めてぎらり、と刃の如く輝く一対は、それは、それは、誰が見たところで、まさしく、あの――。
 つう、と頬に熱い感触が流れていった。ぽたり、と水滴は朱色の清酒に零れて水面に輪を描く。

『なあ、ときいし。なんで、おれって“れん”てなまえなんだ?』
『それは大将殿と奥方が、御子息の先を考えてお付けになったからですよ』
『なんで“はす”なんだ? はなのなまえなんて、なんかおなごみたいじゃないか』
『何を仰るのです。きちんと立派な意味があるのですよ。御子息、泥中之蓮、という諺をご存知ですか――?』

 ぽたり、ぽたり、と落ち始めた水滴は留まることを知らなかった。歪みに歪んだ八束の視界では、もう真面に酒器の輪郭を見ることも出来ない。
 ああ、愛おしや我らの一羽。
 ああ、誇らしや我らの一輪。
 あの日、拗ねながら自らの名に秘められた力強さを問いてきた幼い子どもは、本当に確かに蓮の花だったのだ。

『ふぅん。やっぱりときいしはすごいな!』
『下手の横好きというものです。御大将に温情を戴けなかったら、私は今頃どうなっていたことか』
『ときいしやきょうじろうがいないと、だめだよ。なあ、そんなばかなこというなよ』
『本当ですよ。あなたのお父様は本当に寛大で偉大な御方です』
『そうじゃなくてさ』

『そんなさびしいこというなよ。ときいしも、みんなみんな、おれのだいじなじまんの“かぞく”なんだから』

「時石、大丈夫か?」
 気がつけば隣に掛けた綾人に背を摩られていた。喧騒がようやく耳に届き、斎宮の判断で改めて決議の場が持たれるとの報が入って来た。疎らに人が散っているのはその所為なのだろう。
 はっとして視線を上げれば、大将に背を押された紅髪の鷹が散らばった髪を避けながら、席を辞するところだった。自然に唇が開いていた。開いて、その名を、呼ぼうとして、凍りつく。霊媒師ではなくとも“真名”は口に出来ない。けれど、あれは既に雛ではない。そして八束にとっては、既に仕えるべき“御子息”ではないのだ。そう呼ぶことを、あの日、同胞にも固く禁じたのは、八束自身であった。
 何も言えず、何も出来ず、ただ諦観に手を伸ばしかけた八束を、一瞬だけ、鳶色の瞳が振り向いた気がした。
 ――子息殿。
 そこに浮かんでいたのは、八束の願望、幻(まほろば)でなかったならば、あの頃と何も変わらぬ誇らしげな大器の灯火ではなかったろうか。
 今一度だけ、弾けて酒に溶けた落涙を最後に、八束は眦を拭った。永久に失ったはずの夢の砂が、開いた手のひらに残っていた。


「お姉さま」
 守役のがなり立てる文句に辟易しながら、忙しく手を動かし続ける雪音は、控えめながらもしっかりと自分を呼びかける甥の声に驚いた。雪音が書き物に熱を入れているとき、政に心血を注いでいるとき。針のような雰囲気を肌で感じ取ってしまう甥は、雪音の手を止めさせようとすることはなかったのだ。
 ましてや今は行いに問題が上がった大公に関する政の精査である。守役の玻璃の少将でもなければ、その険しくも凛々しく引き締めた表情を崩すのは憚れた。だというのに、雪路は実に神妙な顔で叔母を呼んだのである。
「鶴?」
 こくり、と白い喉が上下した。言葉少なにそっと差し出された紅葉の散る懐紙に落とされた墨の流麗な文字を辿って、険しかった雪音の唇がほんの少しだけ和らいだ。
「決めたのですね?」
「はい。――お姉さま」
「何ですか、鶴?」
「鷹を得るに要するものは、何でしょう?」
 その問いに雪音は目を開いた。迷えば人に尋ねるばかりの甥であった。その問いはいつも暗闇を手探りに歩く為に、松明が欲しいと強請るようなもので、つまりは無意識的な無いもの強請りが多かった。
 だが、その問いは違う。高く、高く、しかし手を伸ばせばけして届かない距離ではないところにあるものを掴むには、と知恵を欲する者の目であった。忍んで笑う雪音の傍らで、守役はやや複雑そうに、しかしどこか期待を含んだ表情で口を噤んでいた。
「鷹匠の腕を見たことがありますか、鶴」
「鷹匠の……?」
「あの鳥はけして人に手懐けられることはありません。鷹匠が鷹を扱うときは、必ず手と腕を分厚いむしろで覆うのです。何故なら人の腕に留まるときさえ、あの鳥は爪で主の腕を抉るのです」
 だからこそ、彼の猛将の名は鷹爪と名付けられた。その名を友人に与えるのだと朗らかに笑んでいた長兄の顔が脳裏を掠めて、雪音は目を伏せた。私が道を間違えたとしても、あの友人ならば、きっと私を叱ってくれるだろうから。確かに、そう誇らしく。
 泥中之蓮。不死鳥之焔。
 青龍の少将は今しばらく、あの鳥を自らの巣で育てたい、と申していたと守役から聞いた。だが、本当に鷹が彼のように雄々しい鳥であったなら、飛び立ってくれるだろうか。風を齎してくれるだろうか。
「あなたに、その傷を負う覚悟はありますか、鶴」
 庇い合うだけが友ではない。守り合うだけが友ではない。囲い込んで、大切に仕舞い込むだけが優しさではない。
 願はくは、真と言える絆糸の片方をこの未だか弱き御手に。
「――はい」
 懐紙に置いた自らの筆の跡をなぞり、雪路は今一度、目を逸らさずに頷いた。


 最後の雪は舞い、泥中から再起した鷹は天を仰ぐ。
 天麗五十の秋。泥に沈み眠り続けていた雛は、紅鷹の名を冠されて再び天を抱こうとしていた。





 行かないで、ねーしゃ。お願い、みんな、こわいお顔をするの。だからおうちにいて、ねーしゃ。
 市井で冷し飴の旗を見かけなくなり、山の裾野が鮮やかに染まらぬうち。つまりは夏というには時期を過ぎ、秋というにはまだ早い。そんな季節の頃だった。常ならば奔放極まる瑠那に対して、寂しげな表情こそ見せるものの、そんな我儘を言う子どもではなかった。
 さてはて、その理由は俄かに鳴動を始めた荒れた後宮の波を肌で感じていたのか、それとも瑠那のこの状況をその海神の愛児と呼ばれた霊感で察知していたからなのか。瑠那にそれを知る術はないが、ともかく、珍しく愚図る幼子に、自分は確かこう約束した気がする。
 “次の桜が咲く頃には戻ってくるから、待っていて”、と。


 まあ、いつものことながら、それは子どもを騙す曖昧な口約束であり、最低な義姉であるわけだけれども。


「これはさすがに、マジで瑠那ちゃんぴーんち、かなぁ……?」
 噛み締めた歯列の合間から、鉄錆の香がする体液が滴る。ごほり、と咳き込めば血泡が口の端に溜まった。ああ、こういうときにこの唐紅の衣は重宝する。ぐい、と唇を拭って抉られるような熱を発し続ける脇腹を力任せに抑えつける。
 せめて毒が塗られていなかったことに感謝するべきなのだろうか。いやいや、感謝なんて未だ早い。何せ、
「――!」
 振って湧いた人の呼気に戦慄しながらも、瑠那はまだ動く足で地を蹴った。前のめりに前転をする形で身を翻すと、ほんの一瞬前まで身を預けていた木箱が長いかぎ爪の凶刃に串刺しになる。交わした先で仄暗い闇が蠢くのを感じ取ると、袖の下に構えていた小太刀を三本投げつける。だがしかし、呆気なく斬り落とされた小太刀は乾いた音を立てて地面に転がり、闇から突き出た銀の刃が瑠那の心臓を狙った。
 それでも小太刀を斬り伏せる間に身を捻ったおかげで、刃の軌道は大きく外れて刃は瑠那の袖口を斬り落として終わった。ああもう、けして上物ではないけれど、沙羅でこの色を売っている店は少ないのに。
 舌打ちを堪えながら瑠那は新たに小太刀を抜いて、口の中で呪を刻む。その彼女を嘲笑うかのように、二つの影は夜闇の中から姿を現して、一つは何故だかひどく嬉しそうに、一つは何の感情も灯らない空虚な瞳を瑠那へと向けた。
 右手には木箱を貫いたかぎ爪の男――闇夜にもやたらと派手な紫を基調にした、暗殺者らしからぬ衣装を纏っている。
 左手には小太刀を斬り伏せ、瑠那の脇腹を抉った長剣の男――ぱっと見た目はどこにでもいそうな地味な外見の男だが、人や闇に紛れるという点では人殺しとして恐ろしい。
 既に瑠那の鮮血は脇腹から溢れ出して、スリットから覗く白い足を伝っている。劣勢はどう頑張って虚勢を張ったところで隠せない。それでも瑠那は男二人を交互に見遣って、不敵に笑う。
「女一人に、大の男が二人がかりって、ちと大袈裟が過ぎるんじゃあないの?」
「その体たらくでよくそんなことが言えるわねぇ、お嬢ちゃん。まあ、そういう勝気な娘(こ)、嫌いじゃあないわ」
 やけになよなよとした言葉遣いで、怖気が走る口調で、派手な男の声が鼓膜を打つ。絡みついてくる蛇の毒のような声色を嫌悪する。紫衣の派手な男が、甚振る仕草に心底、楽しそうに笑う一方。睨みつけたもう片方の男の目は、何の色も映さずに凪いでいた。瞳ではなく、穴のようだ、と瑠那は思う。その昏い昏い穴に幾人を引き摺り込んで、その心臓を貫いてきたのだか。
「何、あんたたち。そーゆー関係なわけ? だったら、小娘一人に躍起になってないでデートは二人で満足すればぁ?」
「馬鹿言わないで頂戴よぉ。アタシにも選ぶ権利ってのがあるでしょう? そんな叩いても、殴っても、殺しかけても最初から死んでるような男、こっちから願い下げよ」
 挑発に乗ってくるのはやっぱり派手な男だけである。乗ってくる、というよりは戯れにころころと嗤っているというのが正しいか。
 無言の男は何も言わず、一切の予備動作なしに剣を瑠那に差し向けた。その銀の切っ先は、やはり瑠那の心臓だけを狙っている。胸元を手繰れば、盗み出した証書ががさりと鳴る。やれ、血が浸みすぎていないと良いのだが。
 一先ず、投げ出された命を拾わなければ何も始まらない。袖に隠した銃と小太刀とを握りしめ、口の端から零れた命の滴を舐め取って。唐紅の衣の猫は、新月の夜に跳び出した。

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