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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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【にじゅう、何かひとつだけをけして諦めずにやり続けること】

 ――守るべき宝物 愛しさが罪過に変わる前に

 嘆きの扉をこじ開けて進め 誰ガ為ノ世界だとしても
 強く儚く優しい真実と嘘と 裏切りと罪とその全て受け止めて

 哀しき運命(さだめ)を生きる者よ 滅びの振り子にあらがう者よ
 いつかいつの日か仰ぐ天(そら)に 安らぎの音(ね)が響くように――

                           誰ガ為ノ世界/志方あきこ




 俺にとっては幸運で、“彼女”にとって不運だったのは、“彼女”が妊婦であったことだった。妊娠中というのは、とにかく苛立ったり、無性に眠たくなったりするものらしい。個人差はあるのだろうけれど、少なくとも“彼女”はそうだった。
 つまり平素より著しく集中力も注意力も散漫になり、細やかな作業や思考には向かない、ということだ。
 砂のように細かな努力を積み上げるのが取り柄の俺と、一日の半分ほどを睡眠欲に支配される“彼女”。
 行動を起こすのならその期間しかなかった。
 古代語の辞書を握りながら“彼女”が睡魔に負けている間に、平凡な頭に詰め込めるだけ知識を詰め込んだ。歴史書、古代書、魔術書。使い物になりそうなものなら何でも良かった。読み込んで、飲み込んで、そして実行した。
 少しずつ、少しずつ。砂時計の砂が落ちる一匙よりも細やかに。時計の針を秒単位で手繰るように。傾いた天秤がそっくり逆に沈み切るまで。“彼女”から俺へと膨大な魔力の奔流を移し替える。
 例えば戯れに“彼女”に口付けた刹那。
 例えば眠る“彼女”の髪を梳いた瞬間。
 例えば触れた指を絡ませた甘やかな吐息。
 急速な変化には誰もが気づく。けれども、緩やか過ぎる変化には人はなかなか気付けない。ましてやもうひとつの命を抱えた“彼女”のような状態であったなら尚更のこと。
 血相を変えた“彼女”が怒りの形相で、テーブルを叩いた頃にはもうすべてが済んでいた。奪い取った万の呪いを身体に宿し、同じことを“彼女”が出来ないように何重にも鍵をかけた。いや、鍵というのは開ける手立てがあるから、少し違うだろうか。
 けして解けない鎖で雁字搦めに封じ込めた力を解く術はない。少なくとも編み出されてはいない。わざとそういう方法を選んだ。ミルクを注がれた紅茶が、二度と鮮やかな紅色には戻れないように。俺の左眼は深い菫色に染まっていた。
 どうして、とは言われなかった。代わりに泣かれてしまった。あんなに愛した親の死に目でさえ涙を見せなかった“彼女”が、泣いた。俺は不謹慎なことに何だかそれだけで満たされてしまって今一度、本気で思った。もう死んでもいいや。皮肉なことに、そのときにはもう死ねなかったわけだけど。
「あんた、救い難い馬鹿よ。人の苦労を返しなさいよ。全部、返しなさいよ」
「他のことなら何でも聞くさ。でも、それだけは嫌だ」
「いいから! 返しなさいよ!」
 常から整合性を口にする“彼女”から、まったくの感情論が飛び出したのは、その一度きりだったと思う。綺麗な色に戻った鮮やかな朱の瞳から零れ落ちた滴は、とても尊いものに思えた。
「あんたじゃ無理よ。この先、どれだけの時間があると思ってるの」
「それじゃあ、尚更、お前には無理だ」
「何が……っ!」
「お前さ。親父さんと叔母さんよりも俺、なんて選べないだろ?」
 傷つけたいわけじゃなかった。といってもそれはただの言い訳にしかならないんだろう。けれど、それは俺が持っている唯一にして最強のカードだった。
 “彼女”は生まれながらにして愛することを知っていた。いや、愛することを学ばなければならなかった、と言うのが正しいのだろうか。“彼女”の両親は所謂、政略結婚というヤツで、“彼女”の両親は互いの恋に正直に向き合う前に“彼女”を産み落としてしまった。
 愛されなかったわけではない。それでも良くも悪くも頭の切れる“彼女”は意図的に両親に愛を強請り、また仲を取り持たなければならなかった。故郷の言葉に子はかすがい、なんてものがあるけれど、“彼女”は正にそれに相応しい楔だった。
 ひっくり返せば、“彼女”にとって両親は特別なもので、どう足掻いても捨てられないもので、俺と天秤にかけられるようなものではなかった。そしてその2人は、もう既にこの世の人ではなかった。
「……前に、してくれたよな。人の世の輪廻転生の話」
 2人が収まった棺を地中深くに埋めて、おざなりな十字架を突き立てた“彼女”は、ぽつりぽつりと、そんな話をしてくれた。多くの宗教で取り込まれるその夢想は、夢想でありながら、まったくの幻でもないのだと。死んだら分かるのだろうが、生まれてくる頃には分からなくなっているなんて、勿体無い。そんな冗談を言った後に、
 ――あの2人は、きっとまた生まれて無理矢理にでも縁を結ぶんだろうね。
 執念深い人たちだからさ。
 そういつになく儚げに呟いたのは、自らを奮い立たせる為だとずっと思っていた。けれど、現実は違った。
 そうして寄り沿い合うであろう2人の間に、親愛を強請って入り込むことが、もう出来ないのだと知っていたからだ。
 だからこそ、これは最後にして最強のカード。ひどく残酷な“真実”の切り札。天秤の片方に俺を、そして片方に両親を。乗せた“彼女”の天秤はけして傾かない。
 悪魔の囁きと貶めてくれてもいい。卑怯だと罵られても構わない。“彼女”が諦めて頷いてくれたのなら、それで俺は報われるんだ。これは俺が背負うべきものだ。“彼女”は救われるべき人だ。
 泣きながら“彼女”は言った。
「あんたなんか助けるんじゃなかった」
「うん。そうだな」
「助けるんじゃなくて、一緒に死んでやれば良かったんだ」
 泣かないと決めていたのに、それほど頑丈ではない俺の涙腺は簡単にぼろり、と水滴を零してしまった。この後に及んでそれはないだろ。何だよ、その殺し文句はよ。そんな悪態を吐いて、ただ“彼女”の細い身体を抱き締めた。
 覚えている温もりが、今も馬鹿みたいに愛しい。


 やがて“彼女”は子どもを一人、産み落とした。
 女の子だった。
 どことなく、自分の母親に似ている気がした。俺たちは一度ずつ、眠る赤ん坊の額に口づけを落とした。“彼女”が注いだものは何だっただろう。俺は懺悔だった。愛してやれなくてごめんな。何もかもを愛おしむには、所詮、俺の両腕では狭すぎた。
 そうして揺り籠に乗せられた赤ん坊は、俺に残酷な正答をくれた女の部屋の窓辺に置き去りにされた。
 それを見つけた女が、どんな言葉を吐露したのか、どんな感情を抱いたのか、俺は未だに知らない。あの夜を以てして、俺と“彼女”はどこにも帰れない旅人になった。


「……午前9時55分。〇△駅近くの交差点にて、横断歩道に入り込んだ車両と衝突。致命傷には至らなかったものの、運転手は逃げようとしたが同乗していた妻と口論になり、母親が取り落したスマートフォンにて同じく同乗していた長女が救急に通報。通りすがった警察学校就学中の民間人によって運転手側の信号無視が発覚。被害者は長時間の礫圧による左腕切断。加害者側からは道路交通法規定以上の酒気が検出。にも関わらず、被害者は刑事裁判に持ち込まずに示談交渉にて落着」
 事細かに記載された調書ときっちり雛型に書き込まれた報告書を流し読んでいく。必然的に独り言は物騒な単語が多くなっていくが、そこは天下の原宿。人通りは並じゃない。俺の独り言を聞いている人間なんて、隣のベンチで      キャラメルアップルチーズケーキクリームクレープ(早口言葉)を絶賛堪能中の自称JC(予定)くらいのもんだ。
 元々、素行の悪かったその運転手の父親が母親と離婚したりだとか、何故か事故後のパトロンが被害者の男の名前になっていたりだとか、児童虐待とその後のストーキング行為でその父親がブタ箱行きになっていたりだとか。とにかく、平和な大和国の一市民にしては随分と波乱万丈な人生が調書の上で踊っていた。お前の人生の方が波乱万丈だろ、という苦情はくずかごに放り込むとして。
「すいません、長文いいですか」
「どんぞ?」
 ラストのページまで読み終えた俺はすう、と冷たい冬の空気を吸った。
「15歳差って何だよ15歳ってさっきも言ったけどここは現代日本だろ愛に年齢と性別は関係ないとか何だとかいうオブラートに包まってねぇよむしろ突き破ってんだろいやいやわかるよ血縁者が前科持ちってのは将来何かと面倒だし偏見も生まれるから刑事裁判じゃなくて示談交渉で始末つけた欠片ばかりの優しさってのは理解できるけどつか刑事裁判にしたところで自己破産しか道なさそうだしなでも何ていうか普通にパトロンになって普通に仲良くなってっていうシナリオがきちんとあるんじゃねぇの執念深いとかいう域軽く跳び越えてるよねとどのつまり何が言いたいかっていうと」
 調書を読むうちにどんどん冷えていったホットクレープに被りつく。リモーネが香るグラニュー糖の優しい甘さにふわりと融ける生クリームが絶妙だった。きっちり咀嚼して呑み込んでから、空になったクレープの包みをくずかごへと放り込む。ぱしーん。なかなかいい音がした。
「何で極普通の甘酸っぱい恋愛が出来ねーんだよいい加減にしろ!!」
 こんなことくらいでへばるような肉体ではなかったはずなんだが、この息切れは何なのか。ぜいぜい肩で息をついていると、とてもとても気のない拍手の音がした。
「いやー、さすがほっしー。ツッコミに関してはプロ級だね。どこ行っても恥ずかしくないよ」
「ツッコミに需要がある仕事場所って何スか。っていうか、いい加減、そのあだ名やめてくれません?」
「いいじゃん。今は“アルクちゃん”だっけ? それアルクツールスからなんでしょ? 星なんだからいいじゃん」
 図星をつかれて言い澱む。偽造ビザに刻まれた偽名はアルクツールス=レグルス。300年前は天狼、ひとつ前はリゲル、その前はカストル。単純と言うなかれ。偽名というものはすぐに反応出来ずに偽名とバレては意味がない。だから俺はいつも本名に由来する名前を名乗る。
 星。いつかのあの日、“彼女”が俺をそう呼んでくれたように。
 妙な虚脱感を覚えた俺は、ベンチにへたり込むようにして座り込んだ。空は晴天。夜になれば、星がよく見えそうだった。それとも都会であるここでは見えないだろうか。
 キャラメルの絡んだクレープにかぶりつきつつ、「ほっしー」と発音した九重さんは呼び名を変えてくれる気は毛頭ないらしい。
「確かにほっしーのツッコミはもっともかもだけどサ。ほっしーにとっては願ってもないことじゃん。良かったね」
「……そう、ですね。うん」
 俺が最後に切ったカード。明確な確証なんてない希望的観測。それでも“転生”という二文字は“彼女”を納得させるには十分な魅力を持っていた。そして俺といえば、その両親に無償に愛される“彼女”という構図のためにあれこれ奔走し続けていたわけで。
 つん、と鼻の奥に感じた熱をやり過ごした。
 もちろん、1000年なんて長い月日だ。俺も九重さんも知らないところで、それは既に何度も実現していたかもしれない。それを知ることがなかっただけで。でもそれが、目の前にぶら下がりつつある。とうの昔に決意して歩んでいた茨の道でも、報われたような実感を得られる時が来るなんて思っていなかった。
 “彼女”は生まれる場所を間違えたりなんてしないだろう。俺と違って有能な“彼女”なのだから。
「――なら、いいや」
 顔の筋肉がここまで緩んだのは何年振りだろうか。1000年歩んでも得られなかった感情を噛み締めていると、何故か隣からぐしゃりと音が聞こえた。と思ったら、不意打ちに分厚い辞書が脳天に飛んできた。
「いっで! なんで?!」
「ムカついた」
「何が!? 俺、そこまで変なこと言った!?」
「その儚げ笑顔ムカつく」
「似合わなくてすいませんでしたね!? っていうか、いいじゃないですか俺だって日々、生きる希望くらい抱いたって!」
 むしろ、俺はそれだけの為に生き続けている。人間は死を恐れる。それは普通の感覚であるし、ある種、大事な感情だ。死を恐れなくなった人間ほど、厄介な存在もなかなかいない。
 けれども果ても見えないまま、生き続けるというのもこれはこれでなかなかに堪えるのだ。例えば親しい友人が出来たとして、俺は必ずそいつのことを見送ることになる。そうして本当の俺を知る人間はいなくなっていく。まるで世界に忘れられていくような感覚。端的に言えば癒えることのない孤独。
 俺以上に飄々と生き続けているように見えている九重さんだって、おそらくはいつか俺を置いていくのだろう。肉体の構造が歪んでいるのも、魂の形が軋んでいるのも、すべてはひとつから起因している。生き続ける理由が果たされたなら、九重さんだって天寿を全うする。俺はそれすらも「良かったですね」と見送らなければいけない。
 だからこその希望。だからこその報い。空天の下、どこかで健やかにと祈り続けることが俺に唯一許された権利だった。
 けれども九重さんは、それはそれは不快そうな顔で言う。
「“生きる希望”なら、なんで“ならいいや”、なのさ」
「はぁ? いや、だから……」
「そこで自己完結なんてナンセンスだね。もうこうなりゃ、犯罪者が2人いても3人いても変わんないよ。オメデトウ」
 最後はびっくりするほどの棒読みで、クレープ用の透明スプーンを突きつけられた。思考すること十数秒、九重さんの発言を噛み砕いてようやく理解に至った俺は我ながら素っ頓狂な声を上げた。
「はぁ!? もしかして俺にアイツが転生するのを待って会えと!?」
「何その口振り。もしかして待つ気もなかったの」
「良かったなー、と安らかな気持ちで旅費が溜まったらまたどこかに発とうかと」
「あほかキミは! 目の前に餌ぶら下がってんだよ食いつけヘタレ!」
「食っ……」
 言い返そうとして、さすがに口を噤む。周囲は若者のエネルギーでごった返す街。ちょっとした大声程度は雑踏に掻き消されるといえ、散々、援交を見るような目で見られているのだ。失言で職質なんて洒落にならない。
 平静を装ってベンチに掛け直し、潜めた声でぼそぼそと抗議する。
「あのですね。アイツは死んだんですよ。俺のことなんて知らないまま、真っ新な状態で産まれてくるんです。むしろそうであってくれなきゃ意味がない」
「意味があるかどうかなんてほっしーが決めることじゃないと思うけどね。1000年も生きてるくせに、考え方が古典的だこと。ん? 1000年も生きてるから? まあ、どっちでもいいや。とりあえず、そーゆー縄文式の考え方やめたら?」
「縄文時代に俺生きてないからね?! つか、そこまで!?」
「せめて古墳時代まで進化してほしいね。ここちゃんとしては。1000年間で何を学んで来たんだね、キミは」
 嘆かわしい、と息を吐く九重さんに俺の脳みそはついていけていない。いや、まあ、かつてついていけたことがあったかどうかと言われるとそんな記憶はないわけだが。
 転生。生まれ変わり。俺がまだ人であった頃に世界の根幹を揺るがす出来事が続発した影響か、それともまったく関係のないところで何かの歯車が狂っているのか。定かではないが、確かに九重さんの話通りならば、異常なまでの役者の揃いぶりだが、だからといって“彼女”がその波に乗っているとは限らない。
 それに、会う? 会って、どうしろというのだろう。そんな発想はこの1000年、俺の中で生まれもしなかった。だから思考が止まってしまった。だって、そうだろう。俺の恋人であった“彼女”は死んでいて、生まれ変わるとしてもその“彼女”にとって俺は他人以外の何物でもない。
 そもそもその“彼女”と、とうに死んでしまった“彼女”とを、俺は同一に見ることができるのだろうか。
 眩暈がするほどに思考回路が混濁した。口を開きかけては声を出せずに言葉は風化する。そんな俺に痺れを切らしたらしい九重さんが何事か言い募ろうとしたときだった。
「香織、ここよここ!」
 小五月蝿いざわめきの中、一際、響く声が鼓膜を震わせた。特段、大声というわけでもなく、がなり立てるような声だったというわけでもない。右から左に聞き流せずに耳に留まったのは、その声が場違いに凛とした音で旧い記憶を揺さぶるものだったからだった。
「まあ、聞いていたより小さなお店ですのね。でも、種類がこんなにたくさん……」
「香織、どれを食べる? 半分こしましょうね」
「はい! あら。雪音さま、雪音さま、クレープなのにあずきを使ったものまでありますわ!」
「まあ、どうしましょう。選びきれないわ。御守たちを巻いて来なければよかったわね……」
 見た目華やかなクレープ屋の店頭に、2人の女性が立っていた。そちらを向かないように目線だけを遣れば、俺でも分かる素地の良い服に身を包んだ2人。物腰もそこら辺の女子と比べてしなやかかつ柔らかで、お忍びのつもりではあるのだろうが、育ちの良さが一目瞭然。
 嫌な汗を掻きながら九重さんを見れば、俺と同じように立ち振る舞いはそのままで目線だけを投げかけている。驚いた素振りはないが、僅かに眉が寄っているのを見るに作為的なものではないらしい。リアルラック値の低さには自信があるけれども、まさかここまで運がないとは。
 知らぬ素振りでポケットに両手を突っ込み、極自然な動作で立ち上がる。もう一度だけちらりと振り返ると、黒髪紫紺の綺麗な女性と連れ立った眩しい栗色のロングヘアが目の端に見えた。
 ――ああ、あんな色だったっけ。
 “彼女”が誉めてくれた、かつての俺の髪色は。色鮮やかなクレープをはしゃぎながら吟味する姿に、自然と胸に浮かんだのは安堵だった。俺が歪んでしまっても、俺を産んでくれた人の生は歪んでいなかった。
 立ち去ろうとした俺のコートの裾を九重さんが掴む。いつのまにか手は忙しなくスマートフォンを叩いていた。
「あの、離してもらいたいんですけど」
「ダメ」
「ダメ、って。あなた」
「あれはまた抜け出したね。SPさんたち、新宿うろうろしてるよ」
「何スか、その東京ジャングル追いかけっこ。っていうか、出来れば割と早々にこの場を離れたいんですが」
「深窓のか弱い令嬢たちを、こんな治安の悪い街に置いてけぼりにするつもり? やーだ、ここちゃん、そんな冷血漢に育てた覚えはないよー?」
「いや、新宿ならすぐ追いつくでしょ」
「今、副都〇線が人身事故で止まってるんだよ」
「仕事しやがれ東京メ〇ロ!」
 思わず大声で突っ込んでしまって、口を手で覆うが一瞬遅かった。クレープを受け取った黒髪の女性がこちらを向いて澄んだ藤紫の瞳が数度、瞬いた。毒々しい色をした俺のヴァイオレットとは違う、清廉を落としたような綺麗な色が、やっぱり眩しくて直視できなかった。
 女性の唇が開く。呼びかけようとしたのは九重さん、だったと思う。
 ――っ!
 思う、と表現したのは比喩ではなく、実際に認識できなかったからだ。急激に周囲の音が途切れ、びりっ、と電流が走るように左眼に熱が集まった。ぐるり、と瞳の中で白い針が回転する。時計回り。即ち、見せるものは数秒後の未来。俺にとっての厄災を予見する。この永久に動き続ける時計は、そういう信号を宿している(そうしたのはあの永久の魔法使いであって、俺はそれを宿主として借りているだけだけれども)。
 ――《序列・72番 アンドロマリウス》!
 すべてが灰色に映る視界の中で、ヴァイオレットの眼はすべての罪を映し出す。轟く悲鳴。排気音。蛇行するトラック。項垂れた酒乱の罪に堕ちた運転手。衝突。曲がるガードレール。砕けるカーブミラー。少女の骨が潰れる幻想。女の肉が引き千切られる悪夢。
 ――《序列・18番 マルティム》!
 深く思考するより先に、肉体の方が動いていた。唱えた呪いは空間を渡り、出鱈目に強化された肉体を運ぶ。正常に動き出した時間の中で、怯えた表情をした大型トラックの運転手の不細工な顔が見えた。急ブレーキ。擦り切れた重いタイヤの耳障りな音。空白の一秒。次に感知したのはガードレールに置いた手と、トラックを受け止めた腕が砕ける激痛だった。


 ――ああ、しまった。
 朦朧とする視界の片隅で、九重さんがとてもらしくない表情で俺の名前を呼んでいた。だから、今の俺は“アルク”ですよとか、あの人たちの前でその名前を叫ばないでくださいよ、とかいろいろ言いたいことはあったけれど。
 俺の1000年と九重さんの1000年はまったく違う。けれど、そんな月日の中でも一向に慣れないものだってある。むしろ、生きているからこそ痛感してしまうことが。
 命は意外と呆気ないことで手のひらから滑り落ちてしまうものだということ。
 そんな九重さんの前で本当に死んでみせるのは失態だったと言わざるを得ない。
 ――大丈夫ですよ。俺、これでも死ねませんから。
 血液と一緒に吐いたつもりの声が届いたかはわからなかった。


「――ねえ、流れ星が見たいな」
 痩せ細った身体をパジャマに包み、窓を全開にして “彼女”は言った。俺から漏れたのはもちろん小言だった。寒い夜だったのだ。だって、空に“彼女”が俺に名づけた一等星が綺麗に輝いている季節だったのだから。
 身体が動く限り流浪をやめようとしなかった“彼女”がようやく定住したのは40を過ぎて間もない頃だった。
 疫病が流行していた小さな村で、現地に群生していた草から有効なワクチンを精製していた最中に自らも倒れた。慣れない慈善事業なんてするもんじゃない、なんて言っていたが、見返りを求めない行為が慈善事業だとするなら“彼女”は生まれてから今の今までずっと慈善事業だ。
 幸いなことにワクチンも治療法もほとんど完成していて、命に関わることはなかったが、病は齢を重ねた“彼女”の身体から体力をごっそりと持って行ってしまった。
 彼女が永住の地として選んだのは、地図にも載っていないような村からさらに5キロは離れた無人のログハウスだった。埃だらけの住まいを掃除しながら、血は争えないものなのだろうか、なんて考えた。“彼女”の両親が最期の地として選んだのもこんな僻地――世界の果てのような寂れた場所だった。
 考えて、そして身体の震えを抑えるのに随分、時間がかかった。
 それは取りも直さず、“彼女”の命のカウントダウンが始まってしまったことを意味していた。知りたくもないことを知ってしまう左眼が憎くて仕方がなかった。
 “彼女”はそれまでの不摂生極まりない生活から一転して、一日一日を噛み締めて生きるようになった。一日三食、俺の作るポトフやシチュー、ブルスケッタを噛み締めながらきっちりと食べ、天気の良い日は木陰で森林浴に勤しみ、雨の日は雨音や蛙の声に耳を傾けた。俺といえば嬉しい反面でやめてくれ、と叫び出すもう1人の自分を必死に殺し続けていた。
 そんならしくないじゃないか。そんな、この世をあるだけ刻みつけようとするようなこと、やめてくれ。自分で決めたくせに、俺はどうしようもなく臆病で弱虫だった。
 そんな日々の中、星が綺麗に瞬く夜のことだった。窓枠に頬杖をついていた“彼女”は唐突にそう言ったのだ。
 俺は渋った。風はなかったが、星がよくよく見えるということは、冷える夜だということだ。それに何か嫌な予感だってした。40を過ぎても茶目っ気たっぷりに俺を翻弄してくれる“彼女”が、その日はやたらと穏やかな顔をしていたから。
 けれども、俺が“彼女”相手に折れられないはずもなく、何重にもショールを羽織らせた“彼女”を抱き上げて丘のてっぺんまで登った。なるほど、一面の星の天蓋は眩くて、窓枠という狭い視界から眺めるには勿体無かったかもしれない。
 背中合わせに腰を落ち着けた俺たちはしばらくの間、ぼんやりと星空を眺めていた。いや、ぼんやりとしていたのは俺だけで、“彼女”はひとつずつ、空を差しながら星を数えるように名前を挙げていた。あれがカノープス、あれがカペラ、ベテルギウス、リゲル、そして。
「“シリウス”」
 とくり、と心臓が跳ねた。じんわりと温かな温度が胸の中に広がっていく。“彼女”がその冬の空で一際輝く星の名で俺を呼んでくれたとき、俺がどんなに嬉しかったか。何の取り柄もないけれど、この名前だけは少しだけ誇りを持って名乗ることができる。
「さんじゅう」
 不意にそんな数字を言われて、俺は“彼女”の声に耳を澄ませる。この先を生きる上で、いくつもの約束を説いてきた“彼女”が最初に口にする数字。30個めだった。
「―― 一日の終わりに、どんな些細なことでも良いから自分を誉めてあげること」
 それは生きるための約束。俺が“シリウス”であり続けるための約束。身体が化け物になっても、あの永久の魔法使いのように心を殺さないための約束だった。
 一日の終わりか。それはもうすぐ迫っている。今日は、何が出来ただろう。
「ねえ、流れ星が見たいな」
 また“彼女”はそんなことを言った。背中を向けているので、どんな表情をしているかはわからない。流れ星。もし見えたなら、何を願うだろう。
 ――今、この時が、ずっと続いてくれたなら。
 どうせなら、叶わない願いを込めて。ほんの冗談を込めて“彼女”に倣うように指先を夜空に向けて、すぅ、と線を描いてみた。すると、まるで魔法のような偶然で、指先を重ねていた星が綺麗な光の尾を引いた。俺はそれを“彼女”に伝えようと口を開いて。
 とん、と背中に重みがかかった。軽かった。それなのにいつもより重かった。何重にも巻いたストールとショールが、ばさりと落ちた。背中にかかる温もりが徐々に冷えていって、違う、これはショールが落ちたからで、だから早くかけ直さないと、駄目だろ、ちゃんと温かくするならって言った、んだから、ちゃんと、違う、違うちがうちがうちがう!
 ――何が、違うんだ。
 だって、背中合わせに感じるはずの吐息は、伝わってくるはずの鼓動は、もう、届いていないじゃないか。
 魔法なんかじゃなかった。ただ、ひとつの命が星になっただけだった。澄んだ空の輪郭がぼやけて、冷たい滴が頬を滑り落ちていく。
 なあ、流れ星。ちゃんと見えたよ。流れ星を見にここまでお前を運んで来たよ。些細なことでいいのなら、誉めてくれてもいいだろ。なのになんで。
「なんで、見てくれなかったんだよ……」
 村から離れた小高い丘は、誰もいなかった。誰もいなかったから、振り返る勇気もない俺はひとりぼっち、夜が明けるまで慟哭し続けた。
 明日から、ちゃんと生きなければいけない。“彼女”が提示してくれた命を、生きなければならない。だからせめて、今夜だけは。
 お前を想って泣くことくらいは、許してほしい。

 ありがとう。アルテミス・ベルサウス・ノワール。お前と出逢えて、幸せだった。

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