『頸落さぬ沙羅双樹』
「ししょう?」
顔を覗き込んで来た幼い弟子の声に、武鎧蓮は漸く我に返った。思ったよりも深く、長く、考え込んでいたらしい。目の前にあるあどけない幼子の眉間に、僅かに皺が寄っていた。
「どうした、蒼牙?」
仄かな笑みを作って問い返すと、への字に曲がっていた唇がにぱぁ、と笑った。大人はよく子供は現金な生き物だと称するが、あの実は違う。子供は自分の孤独にひどく敏感な生き物である。少なからず好意を持っている人間が、自分の呼ぶ声に気が付かない、たったそれだけのことで、時に手酷く傷ついてしまう。2年程、前になるか。急下降の孤独に襲われた蓮は、そのことを痛い程、知っている。
蒼牙は蓮の袴の膝によじ登ると、再度、顔を見上げて首を傾げた。
「えっとね、ししょうはあねうえのこと、きらい?」
「……いいや」
蒼牙の意図を何となく感じ取って、間を空けてから返事をする。素直に答えれば、幼子は少しだけ面白くない顔をした。正確に言えば疑問の表情だ。小さく溜め息を吐く。
先日、久しぶりに義兄と仰ぐ海神の若君に呼び出しを受けた。今は直属の上司であるから、顔を合わせない日の方が少ないのだが、隊士としても蒼牙の師としてでもなく、鷹若殿として屋敷に呼ばれたのは久方ぶりのことだった。
無駄な事は嫌うが、風流と興を愛する義兄の事。庭に新しい花でも咲いたのかと馳せ参じれば、寝耳に水の話を勧められた。
曰く、幼い時節に親同士が戯れで決めた海神の大姫との縁談を、本当に纏める気はないか、と。
その場にいた当人である幼馴染と唱和した。『あり得ない。断る』と。
彼女の弟であるこの幼子には、兄の口にしたその話が、思いの外妙案に映ってしまったらしい。それは師として着いた己を、少なからず慕うが故である。それ自体は素直に嬉しく思う。だがしかし、その好意の為に安易に結んでしまう話でもない。
幼子に情愛と敬愛の区別は難しい。己も幼い時はあったのだ。わからなくもない。己にその違いを説けるものだろうか。
慎重に言葉を選びながら、噛んで含めるように言う。
「蒼牙。お前はあきらが好きか」
「うん、だいすき!」
「瑠那の事は」
「だいすき!」
「……蒼牙が嫁に貰いたいのはどちらだ?」
喜色満面であった蒼牙の表情が、きょとん、と抜け落ちた。
「おれ、あねうえと、けっこんするの?」
「そういう事だ」
言葉を重ねると、幼子は袴の裾を握りながらさらに疑問符を浮かべた。少しだけ癖のある、艶やかな髪を撫でてやりながら、一つ一つ答えてやる。
「俺があきらに向ける情は、お前が姉に向けるそれと大差ない。瑠那に向ける情は、またお前が奴に向けるような情ではなく、あきらに向けるものに近いな」
「……ししょうにとっても、あねうえはあねうえ?」
「……どちらかと言うと妹に近いが。そういう事だな」
幼子の小さな肩がしゅん、と下がった。俯いた面から小さく、『ごめんなさい』と聞こえてくる。幼いがこの子は賢い。言葉が付ける人の心の傷を知っている。
「……だがな。あきらにそう思っているように、お前にもそう思っているぞ、蒼牙」
下がっていた面がぱっ、と上がった。丸く見開いた目は期待に満ちている。こちらの期待にならば、幾らでも易く答えられる。
「お前が俺を兄と思ってくれるのは、素直に喜ばしい」
やや影を落としていた顔に、綻びが戻った。頭を撫でる武骨な手に、小さな紅葉の手を重ねて懐く様子は、贔屓目を抜いても愛らしい。立場上、甘やかすことは出来ないが、幼子のまだ純真無垢な心に悪戯な傷を付けることもないだろう。それでなくとも、この子は母の居なくなった寂しさから、漸く少しばかり掬われたばかりなのだ。
それを想うと、
――此度、義兄上らしからぬ……。
蓮はその場にて『あり得ないことだ』と申し上げた。だが、その実、考えることは真逆である。
あり得ないことではないからこそ、強く断る必要があった。
己とあきら――海神の大姫は、けして知らぬ仲ではない。赤子の頃から、親同士の仲が良く、だからこそ産まれて間もない時期から互いの子を結納させよう、などという冗談も出たのだろう。現に蓮の父と母が亡くなってからも、海神の大将たるあきらの父親は、まるで自分の息子であるかのように蓮を可愛がってくれた。
御所、軍内で、実父の悪評から、御身が口さがない事を言われているとは知っている。しかし、その評の大半が妬み僻みに繋がるもので、蓮自身を貶めたものではないことを、あきらの父親は理解している。
蓮は同年代の隊士たちには決して負けぬ腕と、軍略政略の在り方を身に付けた自負している。見た目の面も醜悪という程、悪くはないだろう。これは奢りではない。奢りは悪だが、過ぎた謙遜もまた事態を見落とす悪になると、蓮は知っていた。
この戯れにも聞こえる結納話は、真実になったところで、どこからも反論が出ないのである。
あきらは海神一族から、大層可愛がられている紅一点だ。見目も麗しく、性格も(まあ、色々な意味で)快活。行儀見習いも何やかんやと言いながら熟している。妙なところに嫁に出したくはない、というのが、海神一族の総意だろう。
さて、その妙でないところはどこかというと、一族から一目も二目も置かれている義兄――海神龍彦が『この男ならば』と言ってしまえば最後、反対する者は殆どいないのではないか、と思ってしまう。
他者に厳しいことで有名な義兄だが、身内にはもっと厳しい。あきらの婿ということは、彼にとっても身内である。ある意味、最も厳しい目を持って見るであろうその身内の一人に、いい加減な者を据えるとは誰も思うまい。
――戯れの心算であっても、指名頂いたのは喜ばしいのかもしれんが。
結納というものは、恋情がなくとも動いてしまうものだ。一度、あきらと己が頷いてしまえば、この話はとんとん拍子に奔り始めるだろう。
蓮の懸念はそこだった。
――あの髪は……。
件の大姫は、長かった黒髪をばっさりと落とした直後であった。御所の鶴の君――今代の皇子の護刀となるべく、主上に覚悟を見せて来た、と彼女は語ったが、あのどこか諦めきった目と行いを、蓮は見たことがある。
『祖母様、祖母様。私、元より兵として散るを悔いてはおりません』
「……っ」
「ししょう?」
無意識のうちに胸元を抑えた蓮に、蒼牙が声を上げた。不安げな顔をしている。こんな幼子の前で、今、己はどんな痛ましげな面をしてしまったのだろう。
「……何でもない。案ずるな」
そう言って頭を撫でてやれば、蒼牙はあやすように抑えた胸をそっと叩いて来た。情けない。
そんな言葉を口にして、美しい金の髪に刀を入れようとしたのは、他でもない。恋情を注いで止まない、彼の想い人が、今年の春に青龍隊の隊士として隊服を纏った時のことだ。姫として男と添い遂げる女を捨てる行為。胸にあったのは諦観であっても、愛しく想う少女が幸福を捨てるのは我慢ならなくて、必死の想いで髪を括って繋ぎ止めた。
同じような諦観が、あきらの中にもあるのだ。これ程、危険なことはない。
――自棄を起こさなければいいが……。反対する意見もないということは、頷けば纏まってしまう話だということに義兄上はお気づきでないのか、それで良いと思われているのか……いや、
「それとも、単に不器用なだけか……?」
「ししょー!」
快活な声に我に返れば、幼子がいsつのまにか手から離れて、傍の木を指差していた。甘やかな香りのする夏椿の木だ。季節の移り変わる早々の時期に、幼子の指差す高枝に一つだけ可憐な花が咲いていた。
「あれ、取れるかな?」
「……どうするんだ?」
「あねうえのお見舞いにする!」
しばらく前に傷を作った件の大姫は、奥の間で療養中である。当人は平気と胸を張っているが、時折、肩を抑えるのは未だ傷が疼くのだろう。それが背中の傷なのか、胸の傷なのか、蓮には謀れない。
戯れに花を捥ぐ事は叱らねばならないかもしれない。だが、一時の少女の慰めにというのなら、夏椿の方も度量の小さいことは言わないだろう。
「取れた!」
肩に抱き上げると、蒼牙は手を伸ばしてそっと花を摘んだ。
「あねうえのおぐしに差してもらう!」
「待て、蒼牙」
「?」
ただ摘んだ花を差しただけでは、今のあきらの髪ではさらりと落ちてしまうだけだ。空虚な人の心に何を打っても響かないのと同じように。それは慰めにはならない。負った傷を抉るだけだ。
肩当ての裏に仕込んだ小刀を抜くと、蓮は細い夏椿の枝を削り始める。櫛の形でも模倣してやれば、肩に届く程の髪でも差すことくらいは出来るだろう。蒼牙はきらきらとした目でじっ、と手元を眺めている。
――他の懸念がないわけでは、ないのだ。
海神の大将は、あきらの結納を喜ぶだろう。彼女が年頃になってから、嫁入りの話に熱心になった。幼い頃から子煩悩で、蓮はてっきり年頃になれば『誰にも娘はやらん』と頑固者になるのだろうとばかり思っていた。
それが、何かを急くようにあきらへ見合いを勧めているらしい。蓮には、何がしがの理由があるようにしか見えなかった。子煩悩な父親が、娘を男へ渡しても懸念する事柄。事実は知らないが、知らない以上、己は知らぬ存ぜぬを通すとも宣言し難い。
義兄や友人は、己のことを初心と笑う。否定はしない。一度、許されざる小さな姫へと抱いてしまった恋情には、転がされるばかりの身であるからだ。
だが、初心ではあっても脳無しではない。
――取り返しのつかない、困窮要する事柄であったなら、覚悟も要るようになるかもしれない。もっとも、俺がその急を考えなければいけないような事態は、御免被りたいが。
「急いては事を仕損じると……」
「?」
「いや、お前の義兄の言葉だ」
我らに心決めた覚悟があるように、女子(おなご)もまた、男に守られるが為だけの生ではないのです。義兄上。
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正に私が龍彦に対して「こいつなんでこんなことしとん?(´・ω・`)」と常日頃から疑問を抱いてたところにとすんと答えをいただいたような心地でした。
義兄上はつまり、不器用なんだなーと蓮くんが悟っているのがwwwそうです不器用な男ですwwww
あきらの髪の描写にうるっときました…。心配してくれてありがとうだお…。
そうなんです。自棄を起こさないか親の私も心配しております。(ちょ
どうかこれからもよろしくおねがいします(`・ω・´)!
なまじ、天良が女流武家だった為に、蓮は結構早くからおにゃのこ敵わない(´・ω・`)と思っていた節がありました。
義兄上は不器用なんだな、と自分を棚に上げて考えるご子息。
あっきー、幼馴染も弟も心配しとるお。自棄おこしちゃ駄目だおー(´・ω・`)
どうぞよろしく!(*´∀`*)