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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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鷹雛、後宮の催事にて歌を紡ぐ(前編)

 馬鹿げた理想を囀る唇でも、欺瞞と見栄に飾られた虚言を吐くより価値がある。
 これは不如帰でも若い燕でもない、淡々と爪を研ぐ鷹の雛の物語である。

 ※2014.4.27 習作にさらにシーンを加筆したものを前編として保管。




 鷹の雛と書いて鷹雛(ようすう)。
 後宮内でその名前を知らない者は殆どいない。勿論のこと、それは良い意味も悪い意味も含まれる。
 殿に仕える女官は試験を通ると先だってその名を口にするときの気遣いを先輩から教えられるし、後宮内を警護する神宮衛士も同様である。飛び交う思惑は様々であるが、理由は簡単。下手な場所で口にすると、今上帝や皇族府、ひいては護廷五臣将の長と呼ばわる海神家からさえ不興を買うから、である。
 雛と呼ばれるからには、親鳥がいたわけで。その親鳥は既に故人となってはいるが、未だに後宮の酒宴の肴になっている。
 曰く、『神宮を神宮と思わぬうつけ者であった』とか。
 曰く、『兄殺しの末に一族の長となり、その罪業故に天罰を喰らうたのだ』とか。
 今上帝や弘徽殿の女御などは声高に彼の人をそう評するが、彼の鷹は後宮の守役である青龍軍海神家将軍・海神龍牙と同じ盃を交わした義兄弟であり、軍位を剥奪されて尚、鷹雛は若年でいくつかの武勇伝を立ち上げながら海神家の恩恵を受けて禁軍に仕えている。
 つまり、後宮に務める者にとっては、下手に誉めれば高位の皇族から不興を買い、下手に罵れば軍権大家である海神から叱責を喰らうという、触らぬ神に祟りなしの存在であったのだ。


 そんな腫れ物のような存在が、初めて参内するとなれば、後宮内がざわめくのは必然の出来事であった。


 神在月。晴天。日差しは朗らかに、後宮の桜と紅葉は鮮やかに紅に染まる朝。斎宮殿にて。
 海神青玻は早くも本日通算十五回目となる溜め息を吐き出した。
「鷹雛の大君が参内なさるからといって、少し五月蝿いですよ、青玻。そんなに心配せずとも、とても良い日和ではないですか」
 呑気に、そして少しだけ楽しげに声を弾ませる主に、青玻は丸薬を白湯で飲み干しながら力強く首を振った。
「良くないですよ! 馬鹿兄貴はもう一週間も前から『何があっても俺が守ってやるから安心していなさい。何があるかわからないから今日は家に泊まりなさい、決定』って猫可愛がりしてるし、龍彦は龍彦で本人には『初参内くらいで心を乱していては聖殿の顔が立たぬぞ』とか言ってるけど、あいつ、蓮くんが馬鹿にされたら絶対に影でブチ切れるだろうし、そうなったら彼に懐いてるあきらや蒼牙も何を言い出すことか……っ!」
 ああ、深く考えていたらまた胃痛が酷くなってきた。
 そもそもにしてあの若い鷹は、海神家に好かれ過ぎていると思う。これが彼の鷹雛の依存であったなら、青玻とて思い悩むことなく、『海神はお前の巣ではない』と切って捨てることが出来たのだろうに。残念なことにあの若い鷹は、いつでも自身の意志で立ち、自身の言葉を以て人を惹きつけてきた。笑うことは少なくなったが、人心を無碍にしたことはなく、身の上の不幸を言触らして同情を誘うこともしなかった。
 思い返せば、それは故人の鷹爪――武鎧聖とまったく同じ性質であったように思う。非道で粗暴な振る舞いが目立つ一方で、他人とは根っこの部分で繋がっていて、どんな理不尽や暴策であっても彼の部下たちは全身全霊で彼に応えていた。
 良くも悪くも鷹の雛そのもの。彼の中にも未だ見えない、そして常人の尺度では計り切れない何かがあるのだろう。末恐ろしいと思うと同時に、一粒、期待を持ってしまうのは、きっと青玻の中に流れる武人の血の所為だ。致し方が無い。
 主である雪音は、何やら深く思想に耽り出した守役を見て扇を開く。まったく何をそんなに考え込むことがあるのやら。首を傾げて、肝心なことを問いてみる。
「それで、ご本人はどうしているの? あなたとの上覧試合のときなぞ、あんなに堂々としていたではないの」
「不気味なくらい普通だよ。『俺が落ち着くより先に、御大将が落ち着いてください』って。後宮図を眺めながら、『古臭い殿舎図ですね』って。参内中に言っちゃ駄目だよ、って忠告する前に馬鹿兄貴に何かスイッチ入っちゃったみたいで『やっぱりお前は聖の息子だなぁ』って言われてすごく嫌そうな顔してた」
 あの静かな燃え滾る目で、彼は後宮図に何を見ていたのだろう。参内の手順と禁処の説明を受けてから、ぶつぶつと小さく口の中で呟いていた事柄は青玻の耳には届かなかった。それでも縮図を眺めるその瞳は、かつて軍事会合で策を披露していたあの目と寸分変わらぬように見えたのだ。


 鷹雛、後宮の催事に歌を紡ぐ


『……もう一度、お聞かせ願えますやろか。時石はん』
 そう、かつて同胞であった月森靜女史に凄まれてから、幾つの季節を数えたのだろう。
『私たちに、最早、鷹の為に出来ることは、ありません』
 そう答えを返して、薄化粧を纏った彼女の面が憤怒に染まったのを見たのはどれ程、前のことだろう。
『むしろ、私たちが集っていては、駄目なのです。邸を焼いた間者が何者か判然としない今、そして上方に捜査を打ち切られた今、鷹である私たちが……いえ、鷹“であった”私たちが集って居れば、火の手は再び御子息に伸びかねません』
『……だから、御子息のことは他家に任せ、自分たちは素知らぬ振りを貫け、と。そう言うのだな、時石』
『……最早、私たちが御子息に出来る唯一の良策は、それだけです』
 たん、と扇が卓を叩く音が明瞭に響いた。平素は薙刀を振るう女史の御手が、怒りに叩きつけた扇は、けして安物ではないのにぱきり、と二つに折れてしまった。
『時石はん。あんたは鷹爪の頭脳や。生まれは白虎禁軍に仕える武家やったな。それも一本槍の家系や。あんたはそんな家の中で本ばっかり、刀の腕はまあまあ。親兄弟、揃うてあんたを馬鹿にしはった。御大将はそんなあんたに目ぇつけて、鷹爪に入れはった。御子息はあんたを見て、何て言うた? 「時石は凄いんだな。俺にも書や兵法を教えてくれ」。随分、それに救われたと話しはったのはあんたやで?』
『……』
『浪崎はん。あんたかてそうや。奥方が倒れはって、せっかくの隊士の身分を捨てはるか否かいうあんたに声かけたんは御大将や。あんたが詰所で新兵扱いている間、奥方の世話焼いてくれはったんはどなたや。篠田の医療院を紹介してくれはったんはどなたや。蘭奥様と御子息や。あんた、なんぼ頭下げはってもええはずや』
『……ああ、そうだ』
『そうや。うちかてあんたらのことは言えへん。御大将に大事な身体やからと、たんと産休もらいながら、一番始めの子を流してしもた。何が起きたかわからへん。何でそうなったのかわからへん。腑抜けた案山子みとうなっとったうちを、蘭奥様はなんぼでも気遣ってくれはった。御子息はな、あの子、母親になれへんかったうちに言うた。「靜母さん」て言うた。それでうちはようやっと何が悲しゅうか解って、泣けたんや』
 詰める月森靜の言葉を、時石八束と浪崎光流は黙って聞いた。黙して聞くことしか出来なかった。
『やのに、やのに、あんたは、あの子を見捨てろ言うんか! 確かに海神の大将も、天良の大花も、信用の置ける御方や。せやけど、そういう問題やないやろう!?』
『月森さん』
『うちらが御恩を賜ったんは大将だけやない! うちらがこうして居れるんは、』
『月森さん!』
 彼女は正しかった。残された三人の隊士の中で、おそらくは、もっとも正しかった。ただ、その正しさがまかり通らないほど、世が歪んでいただけで。
『私たちがこうして徒党を組んで居れば、上方は必ずや鷹の再起を疑います。そして目を、牙を向けられるのは、御子息の方です。未だ十を越したばかりの、御子息の方なのです……!』
『……っ!』
『確かに、あなたの仰られることはもっともです。ですが、あなたはせっかく授かった子宝を捨てて戦えますか? 浪崎さんに奥様を見捨てて戦えと言えますか? 私に家族を捨てろと仰られますか……!』
 靜は薄紅を乗せた唇を噛み締めた。彼女とて理解している。理解しているからこそ、許せないのだ。あるまじき世の理が。何も覆せぬ我が身の無力が。
『時石殿』
 口を閉ざしていた光流が息を吐く。表情を凍らせて面を上げると、そこには頑として動かぬ鉄の隊士が凄んでいた。
『……どうにも、ならぬのか』
『どうにもなりませぬ』
『そなたの頭を以てしてもか』
『……それが、最上の策であるのです』
『……あいわかった』
 呟きの後、洸流は卓の上にあった令状を畳んだ。そして深々と、剛腕と豪胆で知られた隊士とは思えぬ殊勝さで頭を下げた。
『今日にて、我らは他人同士。時石殿、月森殿。……今日まで、誠、世話になり申した』
 鷹の翼を手折ったのは八束ではない。
 鷹の爪を砕いたのは八束ではない。
 しかし、あの日、鷹の息の根を止めたのは、確かに彼であったのだ。


「……きいし、時石!」
 耳元で名を呼ばれ、時石八束は漸く我に返った。眼前には桜と楓の木が、朱に染まった鮮やかな葉を一枚、一枚、散らしている。その見事なまでに染まった葉が降り注ぐのは、清水を湛えた溜池と、紋の刻まれた灯篭と。
 はらり、はらり。
 血のように穢れてはいない。例えるならば、明々と燃える焔か、晴天の日の入りか。その鮮やかな色に目を奪われて数瞬、息を止めていた。
「大丈夫か? どうした、時石?」
 じんわりと滲んだ汗を拭い、面を上げれば、心からこちらを案じてくれている二対の瞳がある。かつての主の友であった御仁と、その奥方の目だ。普段、医療院で見せる白衣ではなく、今日はしっかりとした正装を纏っている。かくいう八束も夏が過ぎた残暑には少々暑苦しい直垂を着込んでいる。
 胸元に手を置いて、深呼吸を一つ。
「……いえ、何も。申し訳御座いません、私めなどが綾人様や郁様の足を止めてしまわれるなど」
「気にすんな。それに、まあ、今日ばっかりは無理もねぇだろう」
「……申し訳御座いません」
 心得ている、と言わんばかりに労わりの目を向けられて、八束は今一度、頭を垂れる。
 “鷹雛の君が参内する”。
 あの忌まわしい焔の惨事から、心を鬼として殺した八束は、書記文官として黄竜軍の傘下に入ることとなった。元々、刀の才は無く、幼少の頃から本ばかりを読んでいた為に、八束は兵法のみならず、薬方、漢方、療法などの知識に長けていた。その知識は医療院を生業とする篠田黄竜には非常に重宝された。
 明確な休日という休日がない医療という場所は、後悔に揺らめく八束の心を安らげてくれた。
 後悔というと、少々、正確ではないのかもしれない。八束はあの日、自身が下した決断を間違っているとは思っていない。考え得る限り、最良であったと今にしても言える。それでも、胸に痞えるこの痛みは、このざらつきは、後悔という以外に当て嵌める言葉をまだ探せずにいる。
「蓮なら大丈夫さ。龍牙の奴からも、龍彦からも聞いてるが、しっかりやってるってよ。たまーに無茶してうちに運ばれてくるけどな」
「……そうですね」
 綾人の言葉に、八束は苦笑いで答えた。無茶な真似を平気でして、机上の空論に過ぎなかった八束の軍法を実現してしまうのが彼の鷹の親鳥だった。その荒々しくも猛々しい気性は似てしまったのか、と抱く想いは期待と不安半々だ。
 彼が医療院へ運ばれてくることがあっても、八束はなるたけ接触を避けた。自身の言を曲げるわけにはいかなかった、というのは、半分は言い訳だ。弱った姿を見てしまえば、昔に育ってしまった庇護欲が疼いてしまう。接触を断って尚、篠田夫妻がその息子たちを叱る姿を見つけては、どうして自分たちはああなれなかったのだろう、と馬鹿げた羨望を抱くというのに。
 ――庇護どころか。
 自分たちは、彼を見捨てたのだ。まだ翼の羽根が揃い始めたばかりの、あの柔らかな心を引き裂いて、止めを刺したのだ。
 恨まれるだろう。憎まれるだろう。それでも良い。そう選んで下した決断だった。
「お。よう、蓮!」
 綾人が不意に明るい声を上げた。その声の高さは、彼と八束の間柄を知って、わざと高らかに上げてくれたのだろう。こんな紅葉狩りに絶好な秋晴れに、湿っぽい空気は似合わないので。
 蓮花の描かれた狩衣を見て、彼の後見には海神と天良の双方がついていたことを改めて思い出す。狩衣の参内は本来なら法度である。例外は時代の武家に花を授ける天良の大花が私兵として従える男子であることだ。つまりは、御所でその衣を纏っている限り、その者に他の武家が狼藉を働けばその家に天良の加護は無くなる。
 八束はほう、と安堵の息を吐いてから、面を見ないように静かに一礼をした。垂れた頭は上げない。大分、背の伸びた蓮の顔は、もう頭を下げてしまえば見えなかった。昔はよく屈んでその視線を合わせたのに、今は狩衣の裾と長く伸ばされた奥方によく似た緋色の髪が視界を掠めるのみであった。
「何だ。てっきり龍牙たちと一緒かと思ってたぜ。まさか迷子じゃねぇよな?」
「ご冗談を。大神家神宮守護の海神家と後宮内で同じ道は踏めませんよ。御大将は少々、ごねていたようですが、こちらから申し出を取り下げさせて頂きました」
「龍牙はお前を可愛がっているからなぁ……。でも、お前が気を使う必要はないんだぜ? あいつだって」
「ええ。おそらくは俺の身を案じてのことでしょう。御気持だけは有難く」
 涼やかに答える少年の声が止まった。摺り足で回廊を歩く音が微かに耳に届く。同時に傍らの綾人と郁の気配が、ぴん、と不自然に張り詰めた。
「これはこれは。どなたか童が居られると思えば、彼の高名な鷹雛殿でありましたか」
 聞き覚えがある声であった。八束は目を張って、頭を上げそうになるのを膝に爪を立てて堪えた。少々、浮ついた感のある、言葉の端に傲慢を滲ませた声。この声は。
「御噂の程が正しければ、耀遵大公の子息――佳南様、で御座いましたか?」
 そうだ。その通りだ。耀遵大公の子息。現・弘徽殿の孫。鷹爪とは水と油どころではない。火と油の関係だ。
 蓮の誰何にぱん、と男扇が鳴る。相手が頷いたのか、狩衣の裾が動いて礼を送ったのが解った。
「若輩ながら誤りがありましたら申し訳御座いません。何とぞ、寛容に願い奉ります」
「いやいや。……ほう。弟子が幼子なれば、どの程度の人物かと思えば、なかなかどうして――」

「まるで不如帰のように愛らしい囀りで鳴く男子であるな」

「・・・っ!」
 堪え切れずに八束は面を上げた。そこには数年前と変わらぬ、いや、数年をかけて父の傲慢と野心とをそのまま吸い上げたような男子の顔があった。男扇で隠された口元は、しかし、明らかに嘲笑を浮かべている。
 不如帰。春に鳴くその鳥は、托卵――つまり他の鳥の巣に己の卵を産み付ける。そうして親鳥は何処かへと去り、その巣の鳥はそれも知らぬまま、余所の鳥の雛に餌を与え、育てるのだ。
 ――この男は……っ!
 この男は、今、幾人の人間を馬鹿にしたのだ。蓮だけではない。親鳥であった鷹爪も、蓮が庇護を受ける海神と天良さえも。否、もしくはその二つの大家をお前が穢しているのだ、という充て付けの心算なのだろうか。
 ぎりっ、と奥歯を噛み締める。鉄錆の味が滲む。それでも八束の力は、あまりに非力過ぎるのだ。
 見かねて動いたのは綾人だった。静かな怒りを立ち上らせつつ、口を開き、
「御言葉ですが、佳南殿……っ!」
「過ぎた苦言を呈して、申し訳御座いませぬが」
 すいっ、とその彼を制したのは、渦中にいるはずの蓮であった。未だ雛であるはずの、少年であった。差し出した手は肉刺に潰れて、随分と節くれている。
「不如帰とは巣に生まれ落ちれば、他の鳥の卵を地に蹴り落とす。いやはや、誠、逞しくも残虐な雛に御座います。――故に、不用意な言は身の程を滅ぼしますれば、どうぞご注意くださいませ。私めの何処に龍の卵を落とす器量が御座いましょうか」
 ひくり、と佳南の礼服に包まれた肩が揺れる。如何な大公の息子であっても、海神青龍を真っ向から敵に回したいはずはない。言霊の無礼を指摘し、諌めながら、謙遜で海神青龍の格を傷付けようとはしない。どちらの言動がより模範的であるかは明白である。
 八束はそっと胸を撫で下ろし、
「まあ、そのような脆弱な身の上でも、燕ほどであれば蹴り割ることも叶うやもしれませぬが」
 そう続いた蓮の言葉にぞっと背筋を凍らせた。そして初めて蓮の顔を間近に見た。幼く、無邪気に八束たちの心を救い上げた幼子の面影を、未だ成長の途上にある顔に残しながら、その双眸は実に冷厳に佳南とその取り巻きの男たちを射抜いていた。夜目にも閃かんばかりの鋭い双眸は、まるで。
「……それでは、後程、大礼にて」
「あ、ああ。それでは失礼」
 眼を閉じて眦を下げることで鋭利さを押し込めた蓮は、改めて目上の佳南たちに一礼を送る。回廊を去って行く男たちの背がどこか縮んで見えたのは、八束の気の所為だっただろうか。
 否、“燕ほどであれば”。
 不如帰の托卵の餌食となる代表的な鳥は鶯である。歌人の才を持ち得る蓮が、そんなことを知らぬはずがない。では、何故、わざわざ彼は“燕”と言ったのか。
 八束の記憶が壊れていないのであれば、佳南の叔父――つまり皇家の大公たちの中に耀燕と呼ばれる男がいた、はずだ。
「――おい、蓮」
「……か、……が」
「え?」
 綾人の呼びかけには礼を送ったのみで、口の中で小さく、彼は何かを呟いた。何か言いたげな綾人と郁に、しかし、挨拶は終えたとばかりに少年は焔と同じ色の髪を揺らしながら佳南たちの後を追う。
「これは遺恨のいたりであったろうに、生(しやう)をしゃせば莫迦な父よ。ようよう解った。精々、手の届かぬ天――いや、地獄か? まあ、幽世で手を拱いて砂を噛んで居れば良いわ」
 独り言のようにそう言い残して。
 八束の目が未だ使い物であったとすれば。
 腐り落ちていないのだとすれば。
 そう彼岸の向こうにある父を詰ったあの口元は、笑ってはいなかったか。
 八束の耳が可笑しくないのだとすれば。
 大分、低くなったあの男子の声を違わず拾ったとするならば。
 あの子は今――

「この程度の腹しか啄めぬか、可哀想な鵯が」

 と申さなかった、か。




 これは遺恨のいたりであったろうに、生(しやう)をしゃせば莫迦な父よ――(これはさぞ無念の極みであっただろうに、死んでしまうとは馬鹿な父よ。ようやく父の無念が解った。精々、あの世で己が手を出せぬことを悔やみもどかしく思って居れば良いわ)

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