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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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年貢は硝子の棺のその中に(前編)

これが、本当に最期の年貢の納め時。

※【死ネタ】注意。Side-S,Side-Mに続きます。




Side-L

 明確な病名が付けられなくとも、瑠那にはそのときが近いのだと解ってしまった。
 いつもの紅茶の銘柄の香りが変わってしまったとき、朝に目を覚まして記憶にない血痕を見つけてしまったとき、目の霞みで距離感が掴めずにカップや皿を割ってしまったとき。
 最初こそ多少、動揺したものの、つまりそういうことなのだと悟ってしまえば、あとは穏やかなものだった。何しろ心当たりなど在り過ぎて、今さらどう取り乱したものか悩んだくらいなのだから仕方がない。あのとき、このとき、色々な場所で瑠那は寿命を削り過ぎたのだろう。ふざけた神様が気紛れに与えた運命ならばいくらでも抗っただろうが、自分が撒き散らした種のツケだというのなら、甘んじて受け入れる他はない。
 さて、悟りを啓いたところで、これからどうしようかと頭を悩ませ始めて、目聡い同居人に見つかった。彼は淡々と瑠那を検診した。そういえば医者だったな、と日頃、忘れがちな事実をぼんやりと思い出しながら、引導を突きつけられるのを待った。仮にも伴侶である女に自ら余命を言い渡す気持ちは如何なものなのだろうと想像を巡らせつつ、もっとも、この男はあらゆる人間の型から外れた人間なのでその思考回路に辿り着くことは永遠にないだろうと思いながら。
 かくて、瑠那は自らに残された時間を知った。その時間を告げた男の性格からして、その前に“多めに見積もって”だとか、“長くても”だとかはつかない。正確無比な情報なのだろう。
 瑠那にとって意外だったのは、その日一夜限り、男が大荒れに荒れて酒を浴びたことである。
 奇しくもその夜は、彼の雇い主であり、大国の元・皇帝であった人間が嫡男にその位を譲り、伴侶の故郷であるこの地に帰還した日取りであった。その為に、その珍現象に気付いた人間は少なかった。男は自宅のワインセラーから秘蔵のありったけを開けて、各人が帝王の歓待の為に持ち寄った御馳走とともに、まるで水のように胃に流し込んだのである。一夜のうちに空になったボトルの値段を概算すれば、おそらくどの土地でも郊外に豪邸が一軒建つ。この土地の人間が、およそ通貨単位というものに疎い人種で良かったと思う。(それでも物価というものを理解している数名は、真面に顔を引き攣らせていた)
 ともかくそんな日和であったから、それが彼なりの歓迎と労いなのだと皆が納得した。曲がりなりにも懐いていた雇い主の新たな余生へのはなむけなのだろう、と。常日頃から本人にしか理解不能な原理で行動していた彼だったから、結局は彼がどんな思いで削いだグラッコの肉に喰らい付き、グラス一杯で一般人の給料が三ヶ月分は飛ぶブランデーをストレートであおっていたかは解らず仕舞いであった。
 ただ一人、歓待されていた側であったはずの元・皇帝はその行動を訝しんだらしい。世界に数本という当たり年のワインを飲み干して、ついに潰れた彼の傍に寄ってくると、瑠那に向かって問いかけた。
「何があったの、この子?」
 “何か”はあったが、それで彼の中で“何が”あったのかまでは理解出来ていなかった。だから、他の人間が言うような理由をつけて受け流すと一蹴された。
「この子が僕のことで酔い潰れるなんて、天地がひっくり返っても絶対にないよ」
 のらりくらりと交わしていると、宴の主役であった彼は人の波へと戻っていった。居心地の悪さを肌で感じてしまった瑠那は、男が残していったワインとブランデーを身体へ流し込んで、自らも潰れてしまう道を選んだのだった。


 翌朝になると、男は自分が酔い潰れたことなど忘れたかのようにけろりとしていた。曰くは「俺の八つ当たりを甘く見るな」とのことだった。
 お前の八つ当たりは一晩で一般人の一財産分を消費することなのか。馬鹿か。そうか、馬鹿なんだな。口に出そうとはしたが、八つ当たりで文化遺産をひとつ破壊しても同じような表情でいる気がしたので、無駄なことはやめて置いた。
「それで、お前はどうする気なんだ?」
「どうする気、って?」
「何かあるだろ。どこに骨を埋めて欲しいだとか、死ぬ前に行きたい場所だとか、会って置きたい人間だとか」
 男の熱を測ろうとした瑠那は、文字通り、一生を賭けて悪くないと思った。だって人でなしが至極、人間らしい殊勝な発言をしたのだ。一年後に生きている保障があったなら、勝手に記念日にしていたに違いない。
 問われて考えて、その昔はとても静かにひっそりと死にたい、と願望していたことを思い出した。たった一人で誰にも邪魔されることなく、ただ穏やかに。例えば誰にも気がつかれずに縁の下で死んだ仔猫のように。例えば誰にも見つかることなく枯れていった山茶花の一輪のように。
 物心がついたときから、瑠那は実に順調に、着々と死ぬために歩いて来たのだた。
 やり残したと思うことは特になく、人並みの幸福を願った人は、娘たちを含め、形はそれぞれまあまあどうにか幸福と言える人生を歩んでいる。思い入れがある場所がない、と言えば嘘になるが、骨を埋めたいと切実に思うほど執着する場所もない。
 瑠那の故郷である沙羅の地で療養を続け、家に帰りたいと踏んだイドラの大地で、サクヤと共に死んだキジローはどうだったのだろうか。
 病床で何か呟けば縁起でもないと叱られて、大人しくかいがいしい妻の介護を受けて、周囲の微笑ましそうな、しかしどこか淋しげな目線を受け入れる。
 ――うわぁ、柄じゃない。
 考えるだけで鳥肌が立った一案をあっさり破り捨て、瑠那は最後の土地としてカルミノの属国であるルーアンシェイルの片田舎を選んだ。細い命の灯を隠すには、イドラは勘の良い人間が多過ぎたし、沙羅に帰ろうと、エイロネイアに帰属しようと、それぞれ注目を浴びすぎる。交流盛んな首都を避ければ、一番、妥当に思えた。三つ子の魂百まで。結局、瑠那は根っこに孕んだ性質を最期まで変えることが出来なかった。
 表向きはエイロネイアの前皇帝が退位したことによる左遷という扱いになった。帝都では王立研究院の名誉教授であり、前皇帝の主治医兼空戦魔道師隊の一個師団を指揮した男が左遷扱いなどと、様々な憶測が飛び交ったらしいが、親しい人間たちからは「また変人の変な我儘が始まった」程度にしか思われなかったらしい。事実、その通りなのだが、日頃の行いというものは実に恐ろしいものである。
 イドラの研究所長であったジンは、瑠那たちが去ることを残念がっていたが、最後は男の「嫁いだ猫がねずみ咥えて戻って来たんだから人手は充分だろ」という身も蓋もない台詞に苦笑した。何だかんだで彼も娘夫婦の帰還に浮かれてくれていたのだろう。メデューラやアイリーンには、出来れば会いたくはなかったのだが、さすがに義理が立たないので別れの挨拶だけと赴いた。案の定、人払いされて長い茶会に付き合わされた。
「でも意外だね」
「何が?」
「あんたはてっきり旦那さえ見捨てて一人で姿を消す方を選ぶと思っていたよ」
 言われて初めて当然のようにあの男を私事に巻き込んでいることに気がついた。夫婦というにはひどく歪でぞんざいでいい加減で、家族というには些か地が固まり切らない。あの男との関係の名前を、瑠那は未だに巧く名づけられないでいた。子供[ガキ]を二人も作って置いて今更といえば今更だが、常識の尺度で測れる仲でないのは瑠那も男も承知の上のはずだった。
 だからあの男はこの地に残って、相変わらず雇い主に可愛がられながら、娘や婿やそのうち出来るだろう孫たちに看取られて、誰よりも敬愛していた義祖父と同じ墓に入ることだって出来るのだ。こんなつまらない我儘に付き合うことなく。ただそれだけのことなのに、瑠那はとうとう出立のその日まで、男にその選択肢を提示できなかった。


 新居を構えるに至って、瑠那たちは(というよりあの男は)田舎の街の小さなアパルトメントを丸ごと一軒買い取った。研究者には荷物と部屋数が要り様といっても、全室買い取る必要があったのかと思う。おかげで引っ越した次の日には、誰も瑠那たちを知らない田舎だった街が、誰もが彼女らの噂をする田舎の街に変わっていた。確かに細かな場所や住居を任せきりにしてしまったのは瑠那だったけれども。
 山間に位置する小さな街のアパルトメントは、近くに水鏡やミヅチの媒体となる水場はなく、空は山脈と不安定な天候に邪魔されて見通しが悪い。加えて谷底という立地のせいで瘴気が溜まり易い。
 つまるところ、神獣やシキガミを使う者、そして竜騎士や空戦魔道師たちにとっては、非常に不便極まりなく、あらゆる移動手段が阻害される土地だった。
 多くの人間には腰を落ち着けてから便りを出した。思った通りに“何故、そんなところに”という返答がたくさん届いた。“今度、訪ねに行くよ”ではなく。
 そう。ここはそれぞれが忙しい日々の合間を縫って訪問するには立地が悪く、遠すぎるのだ。だからこそ“開拓”という建前が使えたし、同年代の友人たちは子供が手を離れたばかりの働き盛りで、年下の弟妹分たちは得られた家庭の幸福を満喫している最中、子供たちに至っては拓かれた自分たちの未来に精一杯だった。いずれ何かの機会に、という機会がなかなか訪れない程度には。
 アパルトメントの瑠那は、おおよそ瑠那らしくなかった。あくせく銭を稼ぐ必要もなく、何かに憑りつかれたように研究に打ち込むこともなかった。思いつきで男のやや俗物的な愛情を強請ったし、思いつきで拒絶した。眠りたいだけ眠ったし、好きなときに好きなものを飲み食いした。
「てんで猫の生活だな」
 そんな暮らしを咎めるでもなく、傍らで眺めていた男はそう言って悪戯に喉を撫でて来た。機嫌が良かったので試しに「なーお」と鳴いてみれば、男は噴き出して笑った。失礼な。悪戯を仕掛けてきたのはそちらのくせに。
「ねぇ」
「あ?」
「私って幸せなのかなぁ?」
「今が? 人生が?」
「両方」
「知らね」
「だよね」
 客観ではなく主観的に。あくせく寿命を削って働いた日々に後悔はないし、あそこには今にはない充足と喜びがあった。今にそれらはないけれど、目の前の男はこんな世界の果てまで瑠那を連れて来てくれた。
「もしも」
「ああ?」
「今、世界を滅ぼしたら、私が助かるってことになったら、どうする?」
 馬鹿な問いかけだった。一体全体、どこのメンヘラ女だ。それでもこの男は、とても愉快そうに口角を上げて応えるのだ。
「早めに言えよ。三つくらいなら方法が考え付かなくもないからな」
 ずっとずっと乾いていた渇望の井戸が、仄暗い水に満たされたような気がした。
 ああ、そうか。何だ。自分は世界の果てに来たかったわけじゃない。世界の果てに来ることで、この男を世界のすべてから切り離してしまいたかったのだ。
 この関係に名前がないのは当たり前だった。こんなもので満たされる危険な劇物に、愛なんて優しい言葉は似つかわしくない。そうやって、鐡登羅瑠那という名前で生まれた女は、産まれて初めて幸福に溺れながら眠ったのだ。



Side-A

「お前の母親が死んだ」
 旅先の投影装置[ヴィジョン・ルーム]で、実の父親からそうメッセージを受けたとき、さすがにアルテミスは一度は聞き直した。陽炎に映る自分そっくりな容貌の父親は、一言一句、違えることなく同じ台詞を繰り返した。
「……いつ?」
「三日前」
「私、一月前からこの街にいるんだけど」
「棺桶造ってたら連絡が遅くなった」
 世界広しと言えども、父親のそんな都合で親の死に目に立ち会えなかった子供は自分と妹くらいのものではないだろうか。この先、親の死に目に会いに行けませんでした、という会話を誰かとするときが来ても、親不孝者と詰られる筋合いはなくなった。親不孝以前に親が子供不孝である。
 大体にして「お前の母親が死んだ」という台詞自体、アルテミスとしてはどうかと思う。一般的な見地からすれば、父も母も実親である場合、「母さんが死んだ」と伝えるのがスタンダードである。「お前の母親が死んだ」、なんてまるで他に母と呼べる存在がいるような誤解を招きかねない言い草だ。
 実際のところ、この人はアルテミスにとっては母親であり、自分にとっては違う、という純然たる当たり前の違いを線引きしているだけなのだろうが。
 アルテミスが産まれたとき、彼らは夫婦ではなかった。いや、夫婦とは呼べなかったというのが正しいのだろう。戸籍や人種がはっきりせず、俗っぽいことを言えば政略結婚という解り易い悲劇なのだが、本当に悲劇、あるいは喜劇だったのはその後である。彼らは一度として愛し合ったことがなかった。
 先に語弊を解いて置こう。何も常に憎み合っていたとか、冷え切っていたとか、そんなことはない。むしろその逆だ。母は最期まで気がつかなかったか、父が最初から自覚していたかまではアルテミスの知るところではないが、アルテミスの目に映っていたそれから見れば、彼らは最初から最期まで恋人であったのだ。
 大差があるのかと思った人間は、初恋の人を思い浮かべて、その人と結ばれる未来を妄想してみると良い。おそらくは大半が途中で想像をぶった切られるか、例外である人は、結婚をして、子供を作って、の辺りから恋が愛に変化し始めていることに気がつくだろう。いや、気がつくべきだ。
 始まりはどうであれ、結びついた恋の糸は、子供を慈しんだり、家庭を築いたと自覚したりする毎に、徐々に恋から愛の割合が増えていく。
 恋と愛の違い? 大違いもいいところだ。後者は親子、兄弟、師弟、その他諸々に降り積もって優しい幸福を振り撒いていく。対して恋は地上でもっとも恐ろしい激情である。不平等に大体の人間を狂わせて、ズタズタに誰かを引き裂くくせに、まるで尊い存在であるかのように愛の前にふんぞり返って立っている。少なくともアルテミスにとってはそんな存在だった。
 別に恋を否定したいわけではないのだ。恋が始まらなければ生まれない愛もある。ただ咲いて結びついた恋の芽は、時間と共に強固な愛に変化しつつ恋の双葉を残す程度がベストだと自論があるだけで。
 だというのに、アルテミスの前でこの人たちはいつまで経っても恋人であり続けた。
 具体的なことを断言しよう。この人は一度として、母より子供である自分たちを優先させたことはない。おそらく同列に並べて慈しんだことさえない。それでいて、可愛がらなかったとイコールかといえば、そうではないのが父の質の悪さである。
 彼は犬でも猫でも自分に懐いてくるものならば、余程のことがない限り、拒みはしなかった。戯れに、気紛れに、片方だけの指先で可愛がった。だが、それだけである。一度、距離を置いてしまえば、その手はけしてこちらを追いかけて来ない。たとえ娘であってもだ。その手がどこまでも追いかけるのは、いつも母一人であった。
 そんなことにも気づかずに、アルテミスは一般的な赤ん坊がそうであるように、極普通に、愚かしくも父親に初恋を抱いた。無邪気なままに「将来、とーしゃんのお嫁さんになる!」と発言し、鼻をつままれ「千年早い」と玉砕して、あからさまに安堵した母の姿を見たアルテミスの軽い絶望感を、きっとこの人たちは知らないだろう。娘にそんな可愛らしいことを言われたら、普通に狂喜乱舞して苦笑で曖昧に誤魔化してくれれば良いのだ。しかし、実の、それも一歳か二歳かそこらの娘相手に、そんなことも許されないほど、両親の間には厄介でいつまで経っても愛に昇華されない苛烈な恋が横たわっていたのである。
 数年後、それはそれは純粋で繊細な妹が産まれたとき、自分と同じ轍は踏ませまいと奮闘したアルテミスの苦悩をこの人たちは知らない。
 アルテミスは溜め息を隠さなかった。どうせ若い頃の無理が祟ったのだろう。わずか40歳。呆気なく、儚く終わってしまったものだ。娘の花嫁衣裳も見ずに逝ってしまうとは、早すぎる。自分は着る予定がないので、棚に上げて、せめて妹の祝事くらいまで待てなかったのか。
 この人たちのことだ。どうせ、昨年の奇妙な引っ越しのときに、すべてを知った上ですべてを放り投げて来たのだろう。周囲の人間の怒るまいことか。想像するだけで頭が痛い。
「……どうせ今更、怒っても仕方ないから過ぎたことはいいわ。それで、ダイアナやシュアラの人たちにはどう説明するつもりなの?」
「ああ……考えてなかった」
 そうだと思った。この父が、アルテミスよりも先に誰かに報告するとは思えなかった。その報告さえ、「棺桶を造っていて」三日も遅れたのである。子供染みたところはあったが、母の交友関係がけして狭くなかったことを知っているくせに。
「俺が考える必要もないしな。考えてなかった」
「は?」
「じゃあな。もう少しで出来上がるから切るぞ」
「はぁっ? ちょっと、待っ」
「Good night」
 ぶつん。
 無情な音を立てて、淡い父の影が消し飛んだ。ざわざわと腹の中で、虫が蠢き出す。虫の報せどころではない。虫の大暴れだ。
 ――考える必要もない? もう少しで出来上がる? Good night(おやすみ)?
 投影装置[ヴィジョン・ルーム]の扉を蹴り開けると、律儀に待てをしていた旅の連れが目を瞬かせた。たぶん、おそらく、アルテミスの今の顔色はかつてない程、最悪になっているのだろう。ただならぬ様子に硬直していたシリウスは、彼女の肩に手を伸ばす。
「どうしたんだよ。親父さん、何て――」
「……行く」
「は?」
「ルーアンシェイルに。今すぐ!」
 振り回されるのは慣れているはずの連れが、駄々っ子のように金切り声を上げるアルテミスを見たのは、それが初めてのことだった。


 そうして一週間。
 馬車と使い魔を使えるだけ使い潰して、両親が越したという遠方のアパルトメントに到着して。鍵がかかっていたので、半ば無理矢理に抉じ開けて。
 目の前に広がった状景に、アルテミスは初めてブラックアウトを経験することになった。
 ガラスのような石英のような、奇妙で透明な棺の中。死臭を漂わすこともなく、死斑を浮かばせることもなく、朱いリコリスカラーのシンプル・ドレスを纏って眠る母。敷き詰められた瑞々しい月下美人は、おそらく一週間は放置されていたはずなのにまるで摘み立てであるかのように咲き誇り、白い左手の薬指に光る指輪の石と同じ色を放っている。
 そしてその傍らで。同じ透明な棺の中で。眠る彼女を愛でながら、ふてぶてしく吊り上げた口角から一滴だけ朱い体液を零し、一週間前に投影装置[ヴィジョン・ルーム]で会話したままの姿で父は実に満足げに目を閉じていた。
 密閉されていた室内で香るわずかな薬の匂いに、最期に父が口にしたであろう劇薬の名前までを察してしまったアルテミスは、もう、笑うしかなかった。笑って、笑って、狂ったように笑って、恋に狂った父の最期の芸術品の前で罵倒した。
 痴話喧嘩をする度に思っていた。母が些細なことで嫉妬する度に思っていた。父が小学生のやるような悪戯で母をからかう度に思っていた。馬鹿な人たち。一生、恋人をやっていろと。けれど、
「本当に一生やる奴がいるか、ふざけるな――っ!!!」

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