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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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鷹羽全章:本章【天武蓮】(華姫の生死と二年の空白~飛鷹軍内様相まで)

鷹羽全章…一代にして冷泉帝護廷十臣将『飛鷹』の礎を築いた天武家初代当主・天武蓮(享年86歳、改名以前の名は武鎧蓮)に纏わる逸話を後世にて収めたもの。祖となった武鎧家先代『鷹爪』の失脚という逆境より、一代にして名を挙げた功績から、沙羅では鷹を不死鳥と語ることもある。沙羅の変動の時代を生き残り、新しき名を今に残した武人を讃える書として、今代の武家の子の教書となっている。
 
 エセ教本の中から、本稿。第一次極東大戦から飛鷹軍立軍まで。






【華姫の生死と二年の空白】

 

「花と羽根 ひとしく命 ながからぬ 羽根と散るのを 思ひけるかな」 華姫

(季節によって散る花と生え変わっていく羽根と、等しく短い命であるならば、私は羽根となって散りたいと思うのです。(そう思うことは罪でしょうか))

 

 前述は第一次極東戦争において、華姫が詠んだ辞世の句である。

 永佳五年、春。第一次極東戦争は、両国の帝による休戦協定という形を以て終結した。公的資料によれば、この時、鷹隊の被った損害は人数こそ最低限ではあったものの、旧鷹爪軍要人浪崎晃と一番槍伍長にして天良一族の大姫・華姫の戦死という苦い結果であったという。

 最前線にて刀を振るっていた華姫に至っては、遺体は見つからず、愛用していた首飾りだけが斥候により都へと届けられた。先の辞世の句と共に、前線へ赴く際に書かれたとされる遺書は、戦後、彼女の傅役の一人であった薊姫より、友人であった春宮の許嫁・耀花殿を通して、一時、仮守役として神宮守護を務めた当時の斎宮・櫻内親王の許まで届けられた。

 ここで史上ではひとつの疑念が湧くことになる。上記に記された経緯は公的資料のものであり、事実として上記の辞世の句が彫られた墓碑が残っている。本来ならば百花を継ぐ大姫として、天良代々の墓に刻まれるはずであった碑を別処に建てたのは、大家の花でなく、鷹の羽根として散ることを望んだ彼女の意を汲んだ斎宮の願に依るものだという。

 しかし、伍長の任になった彼女の遺書が、何故、隊長である武鎧蓮本人の許に届けられなかったのか。現にこの年より二年余り、武鎧蓮は歴史の表舞台から姿を隠すこととなる。鷹隊隊長の席は空席となり、周囲より副隊長の鐡登羅光陽がこの任を勧められるが、光陽は「蓮花の咲かぬところに鷹はなし」とこの奨励を蹴っている。そして、青龍二番隊鷹隊は二年余りの間、海神家の大姫であった晶姫の預かり処となった。

 蓮本人が深手を負い、何処かへ身を隠すことが不可欠であった。冷泉帝勅命により、何らかの理由で都を離れていた等、諸説あるが、ここにひとつ面白い説がある。

 第一次極東戦争時、伽羅国を援助していた大陸の大国、南帝エイロネイア帝国の皇太子ロレンツィア=レベルト=レヴィアス=エイロネイア(策謀の許に父を暗殺し、後に黒雷皇帝と恐れられながら、乱れていた大陸の南帝国一帯を統一するに至ったエイロネイア帝国七十二代皇帝)の護衛官の一人に、武鎧蓮と特徴の一致する将がいたという説がある。無論、帝国の公的資料にその名は無く、確たる証拠となるものはないが、武鎧蓮が再び有史に名を挙げることになったと同時に大国エイロネイアは伽羅国との同盟を破棄、沙羅国、伽羅国の統一後に速やかに同盟関係を結んでいる。あまりに迅速な同盟締結に、裏で何らかの繋がりがあったと推測されている。

 

 もう一つ。武鎧蓮は第一次極東大戦が終結して二年後、雪辱を晴らすようにして鷹隊隊長として復権。即座に奪われていた美高の地を伽羅国から奪い返すと同時に、故人であったはずの天良家大姫・華姫と婚姻を結んでいる。

 百花物語の中では、この一連の不可解な出来事を先の大戦にて伽羅国に捕えられて行方を不明にしていた華姫を美高の地にて救出。一族の存亡を救ったとして、その功績を讃え、天良家の持つ全権を武鎧蓮へ譲渡すると定めたとしている。しかし、これは後世での創作であり、大戦後の華姫は一族を継ぐ姫を失った天良家が迎えた養子で、一族存亡を賭けて冷泉帝が重用していた武鎧蓮と政略的な婚姻を結ばせた、との見方が一般的となっている。

 しかし、華姫が愛用していたとされる遺品の中には、永佳前期の華姫と中期からの華姫が同一人物であることを裏付ける品もいくつか見つかっており、歴史学者たちの頭を悩ませる人物の一人となっている。その最たるものが、華姫が常に身に着けていたとされる首飾りの中に隠されていた和紙に書かれた一句である。

 

「恋ひ死ねとするわざならし むばたまの夜はすがらに夢に見えつつ」

(恋焦がれ死ねという君の仕業らしい、漆黒の夜の間ずっと君の夢を見続けるというのは)

 

 第一次極東大戦にて果敢なくなった華姫に宛て、蓮が残した句と言われている。中期以降の華姫は、故人へ想いを馳せる夫への充て付けとして身に着けていたのではないか、との説もあるが、手記や歌から推察されるに、華姫は戦場においては豪胆であったが、非常に清廉で献身的に夫に尽くした姫君として描かれている。夫婦仲も良好であったとされ、華姫を正室に迎えた後も側室は娶らず、後に彼女との間に二人の姫と嫡子を一人設けている。

 

 

【天武家創建と飛鷹軍立軍】

 美高の地を奪還すると共に、晶姫より隊長の座を返還されると、城下では次世代の情勢の噂が実しやかに囁かれるようになった。三種の守役を務める海神家大将が後宮にて代替わりをほのめかす発言を漏らしたことと、冷泉帝が正式に正室の入内を決めたことに由来してのことだった。

 海神家の嫡流は元々、蓮が仕えていた海神龍彦である。彼が大将として立つことに誰も不満は持たなかった。しかし、副将の座に上がる候補の名の中に、海神家分家の当主陣とは別に蓮の名を挙げる者がいた。そのことが蓮の琴線に触れたのである。

 また一方で同盟国カルミノと南帝国エイロネイアで燻っていた冷戦が、第七十二代ロレンツィア帝即位と同時に収束の途を辿り、彼の大国は対立国である伽羅国への援助を取り止めた。世界全土を巡る大きな時代の奔流の中、他国との開国や対談を巡って皇族府を初めとした鎖国派と、開国の意志を持つ冷泉帝の対立は避けられないものとなっていった。

 最早、五臣将の要人ばかりが皇の座を守り続ける時代は終わった。

 そう判断した蓮は、市井に蔓延っていた阿片の取り締まりを皮切りに、冷泉帝へ鎖国派との全面抗争を提訴。第二次極東大戦を見据え、後顧の憂いを断つべく、都内の大規模な体制改革を提案する。鎖国派と対立していた冷泉帝は、即座にこれを了承。改革成功の折には天良一族の名を没落のものとし、新たに自分を当主として天武家を立ち上げ、十臣将の中にその名を連ねさせるとの約定を結ぶ。鷹から産まれ、龍の巣で育てられた若鷹は、今、まさに飛鷹の時を迎えようとしていた。

 

 この後宮動乱の要として、冷泉帝と蓮が重用したのが、禁裏御庭番筆頭・穂村橘と鷹隊腹心・鐡登羅光陽である。皇族府に属する鐡登羅光陽は、自らの主である蓮に授けられていた“翔刀”を返還。鷹隊の内部分裂をほのめかし、鎖国派の筆頭に立っていた鐡登羅家当主鐡登羅松陰の許へ降る。

 しかし、それ自体が蓮の仕掛けた罠であった。鐡登羅光陽は内部権力から穂村橘へ鎖国派に隠れた反乱軍の一派を冷泉帝へと密告。自身は皇族府私軍の拠点となっていた化野山の外京にて、反後宮軍の反乱を誘発した。化野山の私軍が動いたと知ると、後宮内に燻っていた反今上帝一派は一斉に蜂起。鷹隊一隊と禁裏御庭番筆頭・穂村橘を先鋒にした皇軍と反乱軍の真っ向からの対立となった。

 一方、蓮は密告を受け取ったと同時に化野山に馬を走らせていた。これが反乱分子を根絶やしにする為の策と知れれば、化野山へ向かった光陽は孤立することとなる。精鋭二騎の前に敵は約三百の皇族府軍。その中には、かつて武鎧を裏切り、皇族府と結託し、家族と家臣を失った蓮を追い詰めた武鎧家分家筋の者たちも含まれていた。

 雪辱から十余年。弘徽殿の女御へ突きつけた歌の通り、鷹の誘った炎は後宮の禍すべてを焼き尽くしたのである。これが後に中心となった帝と蓮との名を取り、『泉蓮の乱』と呼称された内乱であった。

 

 かくて内乱に勝利を収め、後宮は大規模な改革を余儀なくされた。その中に、十臣将『飛鷹』立軍大将天武蓮の名が連ねられることとなったのである。

 この折、二番隊隊長であった蓮をはじめとして多くの将と隊士が青龍軍より除隊した。蓮は光陽を初めとした後に隊長職を拝命する何名かのみを指名して、立軍を発布したが、二番隊に属していたほとんどの将兵がこれに続いたのである。

 しかしそれは辛くも、蓮が長く身を置いていた青龍軍から多勢を引き抜く形となった。新たに海神家当主青龍軍大将となった海神龍彦は自軍の精鋭縮小を行うこととなり、その後に東国に下った後に、東国領主として本家を遷すこととなる。この一連を蓮の海神への裏切りと説く書や、海神家のそれ以上の勢力拡大を恐れた画策と記す書等、諸説あるが、立軍の折に青龍大将から贈られた文の句に、蓮はこう返している。ひいてはこれが、天武蓮が武鎧蓮として歌った最後の句であった。

 

「背に負いし 寝に伏す子顔の しのばれむ 誇りにありて 昔思ほゆ」 海神龍彦

(かつて背に負って寝てしまっていた子供の顔を思い出す。(このように育ったお前を)誇りに思うと同時に昔のことがしのばれる)

 

「背負われば 幼子ないし 高くあり 目に麗しは 天上の都なり」 武鎧蓮

(背負われれば幼い子供であっても目線は高くなります。あなたが背に負うていたから、私は幼い時から天上(理想)の都を見ることが出来たのでしょう)

 

 そして永佳七年。第二次極東大戦勃発。しかしながら、大国の援助を得られず、独裁の政権を続けていた伽羅国は劣勢を判断。永佳八年春、伽羅国より斎宮・櫻内親王への縁談が持ち上がるが、斎宮自身の意向にてこれを破談。

 華姫の出自(華姫の父は伽羅国の出身であるという説が有効である。詳しくは序章:天良舞を参照)の許、蓮は伽羅国への裏切りをほのめかす策を用いて伽羅軍法師部隊の背後を取り、青龍軍を中心とした他軍と連携して部隊の包囲に成功。伽羅国皇帝との対談に赴いていた冷泉帝はその場で皇帝から領土と国力の返還・併合を調印させた。

 第二次極東大戦は終結。千年以上、別たれていた二国は再び一つとなったのである。

 

 

【飛鷹軍内様相】

 時代、世代が変化する毎に変遷していった飛鷹軍ではあるが、天武蓮が健在であった頃の飛鷹軍の様相について触れて置く。立軍初期の部隊は一番隊より三番隊まで。飛鷹全盛期は五番隊までを率いていたが、それ以上の肥大化はなかったという。

 御大将を筆頭に、副将として皇族貴族当主となった鐡登羅光陽を起用。これにより、蓮は間接的にではあるが、皇族府院政間への関与を可能なものとした。内乱後、皇族府と飛鷹軍は、蓮、光陽の親睦の許、正式に和解。不必要に肥大化していた皇族府軍を縮小し、権力の暴走を食い止めることに成功した。

 第一番隊隊長には旧友である神威貞山(天麗三十五年~紫鸞三十三年)を置いた。貞山は武家と無縁の市井の平民の出であったが、蓮が青龍軍へ入隊した当初より、常に戦場を共にした勇士であった。以降、第一番隊には平民よりの勇士が集まり、歴代隊長の多くが貴族・武家と無縁の隊士が務めていた。中にはかつて二番隊から大将へと上った蓮のように、一将へ立身した者もいたという。この隊から蓮は市井から軍、ひいては皇への門戸を広げ、民の国政への関与拡大を促した。

 第二番隊には自身の正室である華姫を隊長として起用。その下には天良一族の姫兵私軍を昇格させた。元々、間引きの女子供を姫として育て上げていた天良一族は、天武と名を変えてもこの制度を崩すことはせず、通称“華隊”として女御、更衣、斎宮等の皇の女性たちの護衛や御所内の姫兵団との連携を重視した。後に晶姫の開いた紅珠塾、篠田悠が繁栄させた後宮姫兵団を影から支え、今代の女性の地位向上に貢献した。

 第三番隊には、“飛翔刀”を打ったとされる刀鍛冶の名工・三条五十六の孫である三条みすずが置かれた。何故、若年であった彼女を隊長として置いたのか、蓮自身は明言していない。しかし、この三番隊は後に伽羅国の技術文化を沙羅へと伝え、同時に伽羅国に必要な技術を沙羅から伝える要となった。壮年期に蓮は開拓民と屯田兵と伽羅国へ送る進言をしているが、先導していたのがこの三番隊だったという説がある。


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