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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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鷹羽全章:本章【天武蓮】(誕生~幼年期まで)

鷹羽全章…一代にして冷泉帝護廷十臣将『飛鷹』の礎を築いた天武家初代当主・天武蓮(享年86歳、改名以前の名は武鎧蓮)に纏わる逸話を後世にて収めたもの。祖となった武鎧家先代『鷹爪』の失脚という逆境より、一代にして名を挙げた功績から、沙羅では鷹を不死鳥と語ることもある。沙羅の変動の時代を生き残り、新しき名を今に残した武人を讃える書として、今代の武家の子の教書となっている。
 
 エセ教本の中から、本稿を書いてみた……ら、幼少期の時点で三千字超えたとゆー、やってみたかった感満載な幼少期まで。
 
 

 
天武 蓮(てんむ れん)(青年期の名は武鎧蓮(ぶがい れん))
(天麗三十五年~紫鸞四十六年)
 
 鷹羽全章の主人公とも言うべき天麗から永佳、麗佳に至るまで時に表立ち、時に裏から激動期の沙羅を支え続けた武将。文武両道をそのまま描いたような人物で、伽羅国や移民蛮族との戦のみならず、内政や大陸間との国交にも尽力した智将でもあった。一時は父の代で瓦解した飛鷹軍(先代時の名は鷹爪軍)を逆境に打ち勝ち、鷹羽の誓いの許に天武家を立し、初代一代のうちにその地位を盤石なものとした。
 幼年の頃より数々の逸話を残しているが、その生涯は常に波乱万丈であり、逆境と隣り合わせであった。このことから、今代の沙羅では鷹を不死の象徴として例える風潮がある。
 武人として名を馳せてはいるが、優れた歌人でもあり、後宮の歌会にて当時の皇族府や皇の女御を度々、揶揄してみせたという。
 齢六十の時、今上帝の願で新しく後宮に産まれたやや子の名付け親になるべく参内するが、式典後の祝いの席にて病に倒れ、半身不随の身となった。以降、家督の全権を嫡男へと譲り、幼少期を過ごした別邸の聖蘭邸(旧鷹爪邸)にて余生を送るが、齢八十六で現世を去るまで、彼の智謀や軍略を頼って邸を訪れる者は後を絶たなかったという。
 
【誕生】
 天麗三十五年、木染月。父・武鎧聖と正室・蘭姫との間に産まれる。時代は天麗後期の波乱の最中にあり、三流武家の次男から十臣将の一将にまでのし上がった父の聖にとっては待望の嫡子であった。しかし、それ故に父は敵が多く、また母である蘭姫は生まれつき身体が弱くあった。
 その日、蘭姫は身重ながら公家方の茶会へと招待を受けた。本来ならば臨月である蘭姫は静養を重視すべき身体であったが、鷹爪の立身出世を妬む姫方からの嫌がらせだったと思われる。出席せねば夫の顔が立たぬと赴いた蘭姫であったが、茶会の席であるにも関わらず、舞を請われ、困り果てていたところで陣痛が始まった。来賓の多い中、公に見限ることは叶わず、すぐさま後宮付の産医が呼ばれた。かくて別室にて無事、出産を迎えるに至ったが、その時のあまりの産声の大きさに、蘭姫の代わりとして舞っていた公家の娘が壇上から転げ落ちたという。まさに産まれながらの反骨の雛であった。
 
【幼年期】
 幼少期の多くを紀不弥山の裾野に位置する聖蘭邸(当時の名称は鷹爪邸)で過ごす。父の聖が青龍軍将軍海神家、黄竜軍将軍篠田家と親交深かった為、当時の要人の日記に彼のものと思われる記述が多く残されている。
 
「二つばかりの頃より利発で、辛抱も強く、思いやりや機微にも富んでいる。昼間、本家を訪れて同い年の家の大姫と遊んでいたようだが、遊び盛りの大姫が乳母たちの目の届かぬ場所へ行かぬようにと注意を払っているように見えた。八つ時になって、喜多が二人の為にと麩菓子を用意していたのだが、二人分に等分してからこちらに気がついたらしく、自分の分をさらに二つに分けて差し出して来た。曰く、母上殿が「良い物は皆で分け合うものと仰られていた」とのこと。利口なことは良いことであるし、他家の人間である自分が言うのも余計かもしれないが、少々、我慢が過ぎるのではないだろうか。
 世話役である恭二郎殿(鷹爪軍副将、武鎧聖の傅役。自身の父と兄とを流刑に処して家督を相続した聖には、臣の置ける分家や親戚筋は居らず、蓮には専任の傅役が付けられなかったと推察される)に尋ねると、自宅に置いても多忙な父と病気がちな母を慮って、せいぜい臣下の者に肩車を強請る程度で、我儘らしい我儘は言わぬとのこと。軍には恭二郎殿ご自身のように天涯孤独の者も数多くいるが、まるで本当の家族のように接してくださる。一同、御守りせねばならぬ立場のはずなのに、励まされるばかりだと目頭を熱くされて居られた。
 酒宴の戯れで師と聖殿が婿に貰うか、嫁にゆかせるか、と冗談を言い合って居られたが、確かにもしも余所に一族から若年の娘を娶らせるならば、斯様な男(おのこ)が良いだろうと思う。
 三つになれば刀を取らせる心算だ、と聞いたが、あの豪胆な将にして知略に富んだ聖殿の嫡子である。どのような将に育つか、今から楽しみに思う」(青龍記)
 
 幼少期に書かれたと思われるいくつかの書物には、青龍軍本家海神家大姫・晶姫との結納をほのめかす記述が存在するが、公的な記録は一切見つかっていない。東国全記に寄れば、後に晶姫は海神家嫡流の将に嫁ぎ、蓮自身もまた別の大家の姫を正室に迎えている。しかし、青年期に蓮が率いていた一軍が、一時、晶姫に任されていたり、晶姫の実弟の葬儀に私的文書として花と文とを贈る等、晩年まで親交は厚かったようである。
 
 齢十を数える頃になると、若年の男(おのこ)の中では随一の手腕を誇ると讃えられた。青年期より頭角を現す蓮ではあるが、この時節に最初の偉業を成すこととなる。当時、神宮守護、禁裏守護、市井守護等を一手に引き受けていた大家・海神家大将海神龍牙の三つとなる嫡男・蒼牙により、海神家有史初となる一族外の師範として選出された。このことは異例中の異例として、現存する海神家の公的資料の中にも残されている。しかし、代々、一族内から師範を選出してきた海神家、ひいては交流のある公家や皇族筋から不満の声が上がるのは必須であった。その為、蓮は齢十という若輩にして、上覧試合という形で海神青玻(海神家大将龍牙の末弟。当時の斎宮守護を務めていた重鎮。後の東宰府青龍軍副将)と刃と交わすこととなった。
 海神青玻当人のものと思われる日記、青鑑記にはこの上覧試合を指してこうある。
 
「武鎧家当主曰く、『彼の子は産じてながらの鷹の仔である』と前々より聞き及んでいた。若輩の為か、その意を図りかねていたのだが、此度の相対でその意を解すことが出来たように思う。
 鷹は飼うのが難しい。どれだけ修練や鍛錬を重ねたところで、どんな鷹匠もその腕を守る為にむしろを巻かねばならない。そうしなければ飼い鳥の鷹の爪に皮膚を抉られてしまう為だ。つまり、どうあっても鷹という鳥を飼い殺すことなど出来ないのだ。
 彼等の前に立ったが最後、彼等は我らを獲物と見定め、冷厳の眼で狩り獲るに至るだろう。
 聖殿は此度の戦ぶりを見て、初めて真剣を持つことを許すと仰られていたが、それはつまり、納めさせていた爪を抜くことを許す、とのことではないだろうか。
 無論、荒削りな部分がないわけではない。しかし、入隊してもいない齢十の子供が、その腕一つで数々の不満や軋轢をねじ伏せる戦いぶりを披露したのは確かなのだ。上覧試合の後、部屋に招いて「目指すところは何か」と尋ねてみた。大抵の童ならば、叶いもしない不相応な夢物語か、目の先の軍や護衛隊への入隊と答えるところを、彼の子は「父や皆が見ている渡世のその先を」と答えてみせた。
 来春には正式に何処かへの軍へと入隊するらしい。何かと人手不足がちな我が家の軍に、と思う一方で一抹、不安を覚えてしまうのは紅一点の姪を可愛がり過ぎているのだろうか。彼自身は今のところ、余所の姫君に懸想しているらしいが、あの姫は如何な将兵にしてもひょい、と手に入る代物ではない。加えて人心とはもっとも移ろいやすいもの。一族間のものと我々が思い込んでいた定義を事実として破ってしまった男(おのこ)なのだ。将来、何を打ち破ってしまうか。期待がある一方で不安に思うのも致し方がないことだろうか」(青鑑記)
 
 大器の跡取りを得、鷹は三下の中流武家から一将軍の地位を盤石なものにする。誰もがそう思って疑問を抱かなかった。しかし、天麗四十六年。不測の不幸が彼を襲うこととなる。
 鷹爪軍の失脚。旧鷹爪邸に放たれた凶火によって、鷹爪軍大将武鎧聖が突如として逝去する。これを受け、副将であった浅葉恭二郎が後を追うようにして自害。武鎧蓮自身も半月の間を昏睡状態のまま過ごすこととなった。これを好機と見た皇族府と、父と兄の犠牲の許でのし上がった聖と不仲であった武鎧家の分家郎党が結託。鷹爪軍は解体を余儀なくされた。
 鷹の覇道は潰え、一命を取り留めた蓮当人も、父の過去の行いの報いとして「親族に不幸を招く禍の雛」の烙印を押されることとなった。邸もなく、残されたのは飛べない雛鳥が一人。誰もが最早、鷹の再起は不可能だと信じて疑わなかった。
 
 

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