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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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孤独な生きもの-1

※それはきっととても小さなこと。
掌に刺さった棘なんて、抜いてしまえばただの欠片。
心臓なんてほら、どこも傷ついてなんかいない。


 
 瑠那に自我が芽生えたのは、大分早い時期だった。少なくとも、本人はそう記憶している。無理矢理引き摺り出されたと言うべきか、そうでなければ生き残れなかったと言うべきか。たぶん、どちらも正しい。
 瑠那の身体が、それまでの生家とは正反対の性質を持った血と肉で出来ていると判明したのが3歳のとき。それと同時に祖父と父の目が冷たくなった。そして揃って母の不義を疑った。けれども幸か不幸か、瑠那の瞳は一族を牛耳る祖父とまったく同じ色をしていたので、彼等は瑠那をただで殺すことも出来なかった。
 そのときの自分が何を思っていたのか、実はあまり覚えていない。恐らく、意図的に忘れたのだと思う。どうせ思い出したところで嫌気が差す感情だと分かり切っていたので、思い出そうとしたことはなかった。ただ、「大丈夫よ」「あなたは私が守ってあげるから」と口にする母の声が、日に日に弱々しくなり、頭を撫でる手が次第に痩せ細ってやつれていったことだけは覚えている。
 語彙力の少ない子供ながら、祖父や父が母に浴びせかけていたのは、口汚い罵声だということだけは理解できた。だから、どうすればそれが減ってくれるのかを必死で考えた。結論から言えば、じっと目立たないようにしていればいい、と悟った。彼等は外部の人間が姉を誉めれば誉めるだけ、機嫌が良くなるのだということに気が付いた。逆に、話題が自分に振りかかったときは酷くなる。
 瑠那は生家の中では、驚くほど大人しく振る舞った。祖父とも、父とも、口を利かなくなった。母の声にもなるべく微笑むだけに留めた。姉に対しては――何故か、彼等は姉には瑠那と自分たちとの不仲を隠したがったので、出来るだけ黙って口数を少なく、それでも無視はしないように注意した。
 それでも母の疲弊は減らなかった。当然なのかもしれない。いくら口数を減らしたところで、瑠那という存在が消えるわけではないのだから。
 やがて母は祖父や父が彼女に浴びせた罵声を、そのまま瑠那に叩きつけるようになった。それでも最初の頃は呆然とする瑠那の顔を見て、はっと我に返ったように泣き出し、彼女を抱きしめて謝罪を繰り返していた。今思うと遅かったなぁ、と緩慢に思う。あの時点で瑠那が行動していたら、まだ少しは救いだったのだろうか。
 そんな日々を繰り返して、あの日が来た。
 たぶん、既に限界だった。
 今、思い出してもそんな単純な結論が出てくるだけで、憎悪も怨恨も瑠那の中にはない。
 
 
 みゃーお。
 その日、瑠那は広大な屋敷の奥の縁側で、飼い猫を膝に乗せて寛いでいた。祖父も父もいなかったので、少しだけ気を抜いていたような気がする。猫は瑠那がそうなってしまう前――確か2歳のときに拾って来て、そのまま居ついた黒猫だ。
飼いたいと駄々を捏ねる瑠那に、母は苦笑しながら『仕方ないわね』と祖父と父に許可を取ってくれた。瑠那がその猫の面倒を放棄しなかったのは、未だに母との繋がりに、僅かばかりの希望を持っていたからかもしれない。
「瑠璃って本当に瑠那ちゃんにしか懐かないのね」
 不意に背後から姉が猫を覗き込む。姉の顔を見た瞬間、それまで瑠那の膝で寛いでいた猫はふーっ! と毛を逆立てた。けれど、瑠那が喉を掻いてやるとすぐに大人しくなる。
 瑠璃、とは半分瑠那の願望が詰まって名付けられた名前だ。
 拾った当時の瑠那は、普通の小さい子供が望むそれと同じように、妹か弟が欲しいと思っていた。女でも男でも平気な名前で、自分と繋がりのある名前。拾った当初は軽い仔猫だった瑠璃も、そのときには成猫より一回り小さいくらいまでに成長していた。
 撫でようと伸ばした手を、残念そうに引込める姉を見て、瑠那は言葉を発さずに苦笑した。励ましを乗せた笑みだったが、切り替えの早い姉は、次の瞬間にはぱっと顔を上げて言った。
「ねえ、瑠那ちゃん! 風鈴、ここに飾ろうよ!」
 突然、満面の笑みで提案した姉の言葉の意図が解らずに、瑠那は首を傾げた。確かに夏だから、その発想は間違っていないと言えばいないのだけれど。
 姉の意図を組み切れていない瑠那に、彼女は屈託のない笑顔でさらに言葉を重ねる。
「覚えてない? 瑠那ちゃんがもっと小さいとき、お母様と一緒に買いに行った風鈴! お揃いで2つ、買ってもらったの!」
 やや興奮気味に話す彼女は、そのままうきうきと部屋の小棚を漁り始めた。瑠那の方と言えば、瑠璃のふわふわした毛並みを撫でながら、頭の中の記憶を探していた。
 風鈴と言えば、初夏の頃に開かれる風鈴市のことだろう。朔月の夜、市井が月鳴石の光で満たされる賑やかな沙羅の祭りの1つだ。でも、それに母と姉と出かけたことなどあっただろうか。いや、そもそも母と買い物に行ったことなどあったっけ。思い出せない。
 瑠那が思案に耽っているうちに、姉はお目当てのものを探し出して来たらしい。少々、古ぼけて角が取れてしまっている四角い白箱を縁側へ運んで来た。嬉しそうに彼女が開いた箱の中には、確かに緩衝剤と共に2つの風鈴が収められていた。1つは桃色。1つは黄色。どちらも月の紋様を描いた可愛らしい細工の風鈴だった。
「本当は匂袋もついていたんだけど、さすがに匂いは消えちゃってるね」
 残念そうに言いながら、姉は2つの風鈴を両手に持って目の前で振って見せた。りん、と澄んだ月鳴石の音がする。
「私の名前が香でしょ? 瑠那ちゃんの名前は月の神様の名前なんだ、ってお母様が言ってらしたわ。だからこれを一緒に買ってもらったの。あの年の夏は、ずっとこの縁側に下げていたのよ。覚えてない?」
 覚えていない。彼女の白魚の手が揺れる度に鳴るりん、とした音は、毎年聞いている気がしたけれど。その音がこの縁側から鳴っていたという記憶はない。
 姉は少しだけ寂しそうに微笑んでから立ち上がった。2つの風鈴を飾ろうとしたのだろう。背を伸ばして、腕を伸ばして、
「何をしているの?」
 
 かしゃんっ
 
 襖の向こうからかけられた、少し低い声に取り落してしまった。薄い硝子で出来た、繊細過ぎる細工物は、それだけでひび割れて破片を撒き散らしてしまう。
「あ――」
「香羅、何をしているの?」
 襖を開いて部屋に入って来た母の声が、もう一度問う。姉は慌てて泣きそうになりながら、縁側に散らばった硝子の破片を集めようとしたが、手で制して止めた。その一瞬だけ、吊り目がちが母の目がこちらを見る。一瞬だけ。
 姉は可哀想なくらいに狼狽して、母を見た。
「ご、ごめんなさい、お母様……。私、風鈴を飾ろうとして、それで」
 混乱して割れた2つの風鈴を見る姉は気づかなかっただろう。その2つの風鈴を見て、母が憎々しげに唇を噛んだことに。まるで親の仇でも見るような目で、忌々しげにそれを見たことに。
 けれど彼女はその次の瞬間には、温和に目を細めて姉の肩に手を置いた。
「そう。壊れてしまったものは仕方ないわね。今度の風鈴市で新しいものを買いましょう」
「でも、お母様、これは……」
「さぁ、向こうのお部屋でお茶にしましょう。割れた硝子なんて危ないわ。誰かに片付けさせて置くから、あちらに行ってらっしゃい」
「あ……」
 姉はこちらを振り返りつつ、それでも背と肩を押す母の手の力が強かったのか、とぼとぼとした足取りで襖の奥へ下がっていった。母は優しげな慈しみの目で、明らかに安堵して彼女を見送る。
 瑠那は無感動に割れてしまった風鈴を見つめた。姉の言うことが本当なら、彼女がこれを誰かに片付けさせることはないだろう。そう思って、自分で大きな欠片から拾い上げようとした。そのときだった。
 
 ぱきぃっ
 
「――っぁう!!」
 上がりかけた悲鳴を呑み込んだのは、意地だったかもしれない。驚いて毛を逆立てた瑠璃が、膝の上から逃げていく。
 瑠那の小さな手は、母が振り上げた足の下にあった。踏みつけられた硝子は、さらに鋭利な破片になって容赦なく瑠那の子供の掌を切りつける。傷口から細かな破片が皮膚へと潜り込んで、じくじくと抉るような痛みが手を、腕を浸食していく。
 苛立ち紛れに母はもう一度、瑠那の手越しに硝子の破片を踏みつける。瑠那の掌からどろどろと溢れ出した鮮血が、彼女の履いていた足袋にも滲んだ。それが不快だったのだろう。今度は足をどかさないまま、ぎりぎりと踏みつける。その度に硝子の破片は朱に滲む瑠那の掌を苛んだ。
 ――痛い、痛い、痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたい
 やめて、という声も出なかった。それ程の痛みだったのか、喚けば喚く程に母の苛立ちが大きくなることを本能的に悟っていたのか。おそらく両方だったと思う。
「こんなもの……っ! こんなものっ! あなた、一体あの子に何を吹き込んだの? 何を企んで私の目にこんなものを見せつけようとしたの!? 一体、何を考えているのよ! 化け物のくせに! 化け物のくせに!」
 金切り声を上げる母の声に、他人事のように奥の部屋まで聞こえてしまうよ、と考えていた気がする。物理的な痛みから逃れようと必死だったから、彼女が何を喚いていたのか、聞いていなかった。どうせいつもと変わらない内容だろうから、聞き逃したとしても問題なんてない。
 無言で痛みに耐えていると、ふと、右手から足がどかされた。ほっ、と息を吐こうとすると、出来なかった。視界が反転して、般若の形相をした母の向こうに縁側の梁が見えた。ぱりっ、と音がして背中が痛んだから、『あ、また割れたな』とそれだけを思った。
 母の赤い爪が首にかかるのを、瑠那はやたらと客観的に見ていた。けれど、一秒後にとんでもない息苦しさが襲ってきた。かはっ、と肺の中の息が口から漏れて、知らぬ間に目が見開く。耳元ではぎりぎりと爪を立てる音。ぐいぐいと締まっていく自分の首。咳き込もうにも閉ざされた呼吸器官は、空気を通してくれない。
 母の赤い唇が何か言っている。たぶん、罵る言葉なのだろうが、聞こえない。正確に言うなら意味がわからない。頭が動かない。朦朧と視界が霞んでいく。
 ――死ぬ……っ!
 そう悟った瞬間、ざわりと全身に鳥肌が立った。そうなってから初めて、瑠那の身体は抵抗というものを思い出したらしく、我武者羅に動かした手足が縁側の縁を叩いた。その音が、思ったより大きく響いてくれたらしい。襖が開く音がして、血相を変えた侍女が母を瑠那から引き剥がしていた。
 ひゅっ、とようやく肺に空気が戻ってくる。咳き込みながら、体裁だけは取り繕おうと上げた顔の先、母の歪んだ唇が紡いだ。
 
「あなたなんか産んだ覚えない!! 私の前から消えて!!」
 
 海馬がその意味を拾い上げ、脳内で意味を知ると同時に、瑠那はぼんやりと思ったのだ。どうして今までそうしなかったのだろう。奇しくも、そこから逃げ出すだけの力を瑠那に与えたのは、錯乱した肉親のその一言だった。
 そう思ったら、瑠那の足は軽かった。縁側の草履を履いて、ひらりと庭に飛び出すと、そのまま門へと向かった。背中でまだ母が恨み言を叫んでいた。もう本人はそこにいないのに。いないのに視えてしまっている。それは一時の錯乱という言葉では片付けられない狂気に触れてしまった証。ああ、やっぱりと思った。そして後悔した。
 どうしてもっと早くこうしなかったのだろう。
 
 
 祖父や父は瑠那を屋敷の外に出したがらなかった。彼女を世間の目に触れさせることは、一族の恥を世間へ晒すことだ。
 飛び出した門の外で、瑠那は如何に自分が無知で無力かを思い知った。飛び出したその先は、皇族府の屋敷が並ぶ静かな大路だったわけだが、当時の瑠那にはそんな知識すらなかった。だから、闇雲に歩き出した。辿り着くのはどこでも良かった。もう帰れないと知っていたから、あそこでないどこかを目指して彷徨えば、きっとどこかに辿り着くだろう。そんな浅はかな子供だった。
 歩き続けると、疎らに人の影が見えるようになってきた。すれ違う人々は、時折、瑠那の方を見てぎょっと目を丸くした。そしてそそくさと足早に離れていく。最初は不思議だったが、しばらくして気が付いた。彼女の右手からは、未だにだらだらと朱い液体が滴ったままだった。身に着けていた着物が、今日に限って白地の衣だったから、余計に目立ってしまっている。どうしようか、立ち尽くしているうちに足元に血だまりが出来ていて、もう1つの理由に気が付いた。
 朱く出来た鏡の中に、首に酷い痣をつけた醜い少女が映っていた。
「……」
 少し考えて、帯の内側を留めていた淡い桃色の薄布を引き抜いた。痣を隠すように首へと巻きつける。未だ硝子の破片が食い込んだままの右手の所為で、なかなか上手くいかなかった。
 やがてようやく不自然ではない風体に首へ布を巻きつけたとき。
 
 ぽつり。
 
 鼻先に、冷たい感触が落ちた。気のせいであって欲しかった。けれど、遠巻きに周囲を歩いていた群衆の足がさらに速くなるのを見て、その望みはあっさり打ち砕かれた。
 春雨は緩やかな音で、しかし冷たく瑠那の身体に降り注いだ。着物を濡らして腕に滴って、傷口を濡らして、きりきりとした痛みを蘇らせる。止血、止血しなければ。血を止めなければ。あとは屋根だ。屋根が在る場所を探して。
 そう頭は回転していくのに、瑠那はその血を止める方法も、確実に雨をやり過ごせる場所も知らなかった。何も知らない6歳の子供が、1人で歩き回るには、この都はあまりにも広すぎたのだ。
 途方に暮れた末に、草履も足袋も濡らしながら瑠那が行き着いたのは、子供1人分がやっと身を潜ませることの出来る長屋街の路傍だった。座れば濡れた地面で余計に身体が冷たくなると思ったので、かろうじて降り注ぐ雨を避けることが出来た路傍の片隅にしゃがみ込んだ。
 右手はまだ痛む。痛むが、だんだんとその痛みは薄らいでいくようだった。それにほっとしていたが、今考えるとぞっとする。あれは痛みが引いたのではない。あの痛みの緩和は単純に身体が冷えて、感覚を失っていただけだ。
 あのままでいたなら、瑠那は確実に低体温症で生死の境を彷徨っていただろう。あのままでいたなら。
 結果的にはそうならなかったわけではあるが、瑠那にしてみれば、あの出来事が自分にとっての僥倖だったかと問われたなら苦笑いを浮かべるしかない。
 どことも知れない長屋の片隅に身を竦ませて、どれくらい経った頃だろう。斜めに降り注ぐ春雨は、屋根の下にあっても瑠那の身体を濡らし続けていた。かといってどうすることも出来ずに、彼女は蹲るしか出来なかった。そんなときだ。
 不意に、降り注ぐ雨が小さな影に遮られた。不思議に思って閉じていた目を薄く開くと、目の前の砂利道に足が2本見えた。草履を履いた、大人のものではないが、瑠那のような華奢な脚でもない。
 じっと見ていると、真上から声が聞こえた。
「……お前、大丈夫か?」
 顔を上げて、自分とは違う足の太さに納得した。まだ高い声ながら、声をかけて来ていたのは少年だった。今だから解るが、普通の、同い年の少年のそれよりはずっと鍛えられた足だったのだろうな、と思う。
 手に持った傘を瑠那の方へと傾けながら、そう問いかけた少年は随分と苦い顔をしていた。綺麗な顔だな。素直にそう思った。綺麗と同時に、あどけないながらもわずかに精悍さを感じさせる面。たぶん、同い年くらいだと思う。珍しい夕日の色をした髪はさらさらと春雨の風に揺れていて、鳶色の澄んだ翳りのない目は恐ろしいくらい純粋に、懸念の眼差しを瑠那に注いでいた。
 それに目を奪われてしまった当時の自分を罵ってやりたい。忠告して、警告して、その一瞬で芽生えかけた感情を根っこごと引き抜いてやってしまいたい。
 ああ、あの頃の自分はあまりにも純粋過ぎやしないか。くそ、出逢うよりも前にスレてしまっていれば良かった。何度も思ったことだ。けれど時間は巻き戻らないし、あの少年が、あの男が、あのときのことを覚えている筈もない。いや、覚えていたのかもしれないが、その後に再会したときの挨拶は無情な『初めまして』だった。彼が悪いわけではない。実際、あのとき路傍に座り込んでいた瑠那と、後に再会したときの瑠那とではまったくの別人だったから、結びつかなくても無理はない。そう、それでいい。知らなくていいのだ。一生、気付かなくていい。
 少年は庇うように抑え続ける瑠那の右手を見て、苦く苦く表情を歪めた。一瞬、迷うような気配を見せた後に傘を肩に寄りかからせて、瑠那と同じ目線になるようにしゃがみ込む。空いた両手を差し出して、彼は気遣わしげな声で訊いてきた。
「診せてみろ」
「……」
 迷いがなかったわけではない。けれど、下がりに下がった体温で朦朧としていた脳は、素直に少年に右手を差し出させていた。少年は瑠那の掌を凝視した後、しかめていた顔をさらに苦くした。瑠那には解らなかったが、余程、酷かったのだろう。柔らかい皮膚が、硝子で傷ついた上に、傷口にはまだ欠片が残っていたわけだから。
「これ、どうしたんだよ」
「……」
 問われたけれども、瑠那には答える術がない。無言を貫いていると、少年は小さく息を吐いた。
「ちょっと待ってろよ」
「え……?」
 そう言って躊躇いなく傘を手放して、瑠那の身体を覆うように砂利道に立てかけると、自分は濡れながら駆けていった。どうしていいかも解らずに、そのまま身を硬くしていると、少年は10分足らずで戻って来た。
 そうしてしゃがみ込んで、濡れないように自分の衣に隠していたものを、傘の下にばら撒く。包帯。どこの家庭にも常備してあるような一般的な消毒用の薬草。綺麗な薄い布。それから魚の骨を抜くために使う小骨抜き。
 あんな短時間でどこから掻き集めてきたのだろう、と疑問に思ったこともある。だが、考えてみれば奴は人当たりの良い美少年で礼儀正しいお坊ちゃまだった。きっとそこら辺の民家から、頭を下げて借りて来たのだろう。つくづくお人好しで馬鹿な男だと、今でも思う。
「痛いだろうけど我慢しろよ」
 恐らく、怯えさせないためだろう。つとめて慎重な声で言うと、少年はまた瑠那の右手を取って、突き刺さる硝子の欠片を小骨抜きで抜いていった。平時であれば痛みを伴うその作業は、凍り付いていた瑠那の手には関係がなかった。ただ、その細かな作業の間、傘はずっと瑠那の身体の上にあって、少年は濡れねずみになっていたのを覚えている。右手を支える少年の手が、雨に濡れているのに妙に温かかったことも。
 大方の硝子の破片を取り除いた少年は、綺麗な布で瑠那の腕をやや軽めに縛った。何の為の行為なのか、当時はわからなかったが止血の為だ。それから薬草を手ですり潰して、瑠那の掌に当てるとその上から丁寧に包帯を巻きつけた。
 考えたことはなかったけれど、6歳にしては手際が良かった。たぶん、彼の尊敬する義兄上かその相方にでも教わったのだと思う。もしくはやたらと心配性だった彼の世話役か。
 さすがに細かな硝子の破片を抜いていくという作業は、相当な神経を使うものだったらしい。少年は額にこびり付いた汗とも雨ともつかない水滴を、袖で拭うと一息吐いた。
「これで一応、応急処置はいいよな。でも、全部取れてるかわからないし……」
 次の言葉さえなければ、瑠那と彼の関係は、少しは変わったものになっていたのだろうか。そう考えて、ないな、と思う。瑠那自身の性格はここまで厄介な拗れ方をしなかったかもしれないが、関係は変わらなかっただろう。
 不安げに自分で巻いた包帯を見つめながら、少年はぽつりと言った。
「やっぱり、篠田先生にちゃんと診てもらわないと駄目だよな」
「――っ!」
 その一言が、淡い温かさにぼんやりしていた瑠那の頭を一気に現実に引き戻した。
 篠田。しのだ。聞いた覚えのある名前だった。そう、確か祖父や父が口にしていたことがある名前で、ということは、都ではきっと有名な地位のある人で、ああ、確か十臣将と言われる大家の誰かが、そんな苗字じゃなかったっけ……?
 そこまで思い出してざあっ、と血の気が引いた。理解すると同時に、ぐしゃぐしゃになった草履を踏みつけて、立てかけられた傘を放り出して、その場から逃げ出していた。
「あ、こら、ちょっと待っ……!」
 慌てて少年が背後から何かを叫んでいるのが聞こえたが、構っていられなかった。とにかく路地を滅茶苦茶に逃げ回った。彼はあのとき、瑠那の背を追い掛けたのだろうか。我武者羅だったから分からなかったし、あのときの幼い子供が自分だということを、この先も永劫語るつもりはないので確かめる術はない。
 後から考えると笑ってしまう話だが、あのときの瑠那はこの国がどんな動きをしているかも、誰が味方で誰が敵なのかも判別がついていなかった。十臣将、偉い人、きっと逃げ出してきた生家とも関わりがある人。だから、ついて行ったらあの門の内側へ連れ戻される。そう思った。だからあの場から逃げ出した。
 走って、走って、走って、逃げて。
 雨が止んだことにも気が付かずに、打ち捨てられた場末の厩に辿り着いたときには、とうの昔に日が暮れていて。夜の闇に投げ出された瑠那は、そこから漏れる得体の知れない恐怖から逃れる為に小さな空っぽの厩に潜り込んだ。
 積み上げられた藁は変な匂いがした。それでも雨の後の冷たい風を防ぐには十分だった。何かから、身を隠すように耳を塞いで、藁に埋もれながら目を閉じた。ひたすらにじっと、呼吸さえ忘れたように蹲っていた。救いはそうしているうちに、治療された右手の痛みが徐々に薄らいでいったことだった。
 あのとき、瑠那は一睡でもしたのだろうか。埋もれた藁の向こうから聞こえて来た朝の鳥の鳴き声に、かつてない程、安堵したことだけは確かだった。



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