永佳四年、春――
梅の蕾も綻ばぬ年初月のことであった。
迎春の時節なれど、雪の降る暗雲続く日が続いていた。常であれば静々と年の瀬を祝うはずであったが、戦禍の最中にある兵ならばそれも叶わず。特に最たる前線に立つ兵の中には、疲労と望郷の念が溢れていた。
皆がどこか覇気なく、文を認めては家族に送っている。慣れない海風に身体を冷やしながら、ちらちらと降る雪をむしろと衣で凌いでいた。
急ごしらえの竃で炊いた甘酒を配り終えた華音は、むしろを被りながら、櫓の上でふと息を吐いた。吐いた息は白く濁って透明な大気に溶ける。櫓の上から、海風の吹きつける方角へ目を寄せれば、重く垂れこめた暗雲と灰色に波を立てる海が見える。逢坂湾と名の付けられた静かな海の遥か沖には、黒く澱んだ帆が魚の群れのように泊まっている。
碧色の目を光らせて、華音は停泊したその影を追う。
「まこと、動かなくなったな」
積もった雪を踏み固めながら、巨体が隣に座り込む。沙羅青龍軍二番隊、『鷹』の異名を取る勅令隊が一人、浪崎晃であった。むしろの下に人の倍ほどあろうかと思う巨体を縮ませて、浪崎は鋭い視線を華音と同じ方角へ送る。
華音は無言で頷いて、湯呑を抱きしめた。
伽羅国の水軍が逢坂湾に展開したのは、一年ほど前。永佳二年の冬、年が明ける寸前のことだった。元々、緊張状態が続いていた沙羅国と伽羅国は、ほぼ一方的な宣戦布告に会談の余地さえなく激突することとなった。あの冬も雪の深い年だった。冷えた自宅の庭園で、静かな心のまま、開戦勅令の報を聞いていたように思う。
「お嬢は家族へ文を書かなくて良いのか?」
自らの白髭を撫でつけながら、浪崎が多少の揶揄を含めて言った。未だ二十に届かない小娘への揶揄ではあるが、そこに悪意はない。皆が母や兄弟に年明けの文を認める中で、率先して甘酒を炊いて櫓見に回る女の身を案じてのことである。
華音は自分よりも頭三つほど高い位置にある浪崎の顔を見上げた。皺だらけの目尻が、まるで自分の子を慈しむように華音を見下ろしていた。
「大丈夫。文は都を出る前にきちんと書いて来たから。むしろ送った方が怒られるわ」
そう応えて苦笑を浮かべる。
女流であれど、武家に生まれた身であった。唯一の肉親である祖母はその血も気高くある。未練がましく年明けの文を書いたなら、背を省みる孫娘を叱咤するように思われた。
浪崎はやれやれ、と呆れたような息を吐き出して、熊のような手で華音の頭を撫でた。
「叱咤激励するものであっても、子供孫からの文は嬉しいものだぞ」
「そうだね。浪崎さんは書いた? 奥さんと息子さん、いるんでしょ?」
「一昨年、娘が産まれた」
初耳だった。思わず口に含んだ甘酒で火傷しそうになる。目を瞬かせて、浪崎を見上げると、朗らかな笑顔でかつかつと笑われた。
「斯様な顔をするでないわ。儂は晩婚だったからの。息子も未だ十を出たばかりじゃ」
「……そっか。可愛い盛りよね」
「時化た面をするでないわ。若いもんをこんな寒さに放り出して、己だけぬくぬくしておっては妻にも息子にも胸を張れんからの」
少しだけおどけた口調で腕を組む浪崎に、くすり、と笑みが漏れた。泰然とした態度は、やはり年の功というやつなのだろう。
甘酒の湯呑から零れる湯気で頬を温めながら、華音はからからと笑った。
「じゃあ、都に帰ったら会わせてよ。浪崎さんの息子なら、可愛いんだろうね。小熊みたいに」
「何を言う。息子なんぞまだまだハチドリじゃな。毎朝、ぴーぴー五月蝿くて敵わんかったわ」
そう言って浪崎は熊のような顔で肩を震わせた。浪崎は人より頭二つ分以上大きな巨体を持つ強面の将である。掌は華音のものと比べて見ても、丸々節二つ分は違う。その巨大な掌は、若気の頃から巨斧を振るって豆だらけであった。息子がどうなのかはいざ知らず、きっと彼と同じ、実直で負けん気の強い良い子なのだろう。
うろ覚えではあるが、幼い頃はこの巨体に背負ってもらったことがあったと思う。軽々と片手で抱え上げられて、当然のように肩に座らせられた。一武人を目指す身としては悔しいような気もしたが、父親のいない華音にはその感覚は新鮮であった。
浪崎は華音の反応に気を良くしたようだった。むしろの上から頭を軽く叩きつつ、胸を逸らせて喜色を浮かべる。
「今日明日にも、御子息が年明けの視察に来るであろう。しっかりせねばな」
「……うん。そうね」
浪崎が御子息と呼ぶのは、華音と彼が隊長と崇める『鷹』の長である。正確なところ、崇めるというよりは同胞として頭に立つ、と言った方が正しいか。華音にとっては幼い頃から知る馴染みであり、浪崎にとっては若い頃に仕えた将の息子である。別たれた時節はあったものの、浪崎は御子息と呼ぶ彼――武鎧蓮を大層、可愛がっていた。今こそ従者として従っているが、その関係は良い意味で恭しいものではない。
「久方ぶりの逢瀬だろう。櫓は儂が守っていてやるから、御子息を労わってやってくれ。最近は、都と前線の往復ばかりしておって、疲れているだろうからな」
唐突に振ってかけられた言葉に、華音は眉間に皺を寄せた。
「逢瀬?」
「久方ぶりだろう?」
「年が明けてからは会ってないから、久しぶりっちゃ久しぶりだけど……。何で逢瀬?」
記憶が確かならば、それは恋仲の男女の一時に使われる言葉ではなかったか。念の為に言えば、けして華音と彼はそのような艶めいた関係ではない。狐につままれたような表情をしていると、浪崎は太い眉をひそめて華音を見た。
「都に凱旋した後には祝言を挙げるだろう、と若い奴らが噂をしていたぞ」
剣呑とした眼差しで、華音は背後を振り返った。いつから聞いていたのか、むしろで雪を凌いでいた兵士が、浪崎へ伝わらない制止の合図を送ったまま固まっていた。この寒いのに額には脂汗が浮かんでいる。まったく、またいい加減なことを。
「ないない。凱旋したらきっと蓮は褒賞か何かで、いいとこのお嫁さん貰うんじゃない? 皆がびっくりの美人さん」
言いながら、振って落ちた雪に心臓の辺りが冷えた。一抹の寂しさは見ない振りをしてやり過ごす。熱い甘酒で流し込んでしまえば、浸みた雪などどこにもない。
「そうかのう。時石の奴が、御子息はいくら見合い話を持って行ってもうんと言わない、と嘆いていたぞ」
「そりゃあ、こんな膠着状態で祝言なんて挙げてられないってば。もういい加減、弱冠なんだからさ。凱旋したら折れると思うよ」
華音が捲し立てると、浪崎は難しい顔をして首を捻った。そんなに難しい顔をしなくても、当たり前のことを述べただけだと思うのだが――。
早婚の沙羅で弱冠(二十)にして独身の男は少ない。ましてや、軍や皇宮で認められている人間は、結納、祝言の後に血を残すことを望まれる。
華音が知る限り、武鎧蓮は情に深い男である。そして隊命、軍属は見ない振りをしても国への忠は為す男である。親兄弟を失くしているのもある。帝は情の意味でも、国を建てる意味でも、彼の血族が残ることを望むだろう。女官の一部からは近寄り難い風体の美丈夫と噂されているが、その実は情に厚いことを華音は知っている。
己の懐に入る女性となれば、周囲が羨むほどに愛されるだろう。
「……あつ」
無意識のうちに冷まさず甘酒を飲んでいたらしい。舌に走った僅かな痛みに、華音は唇を歪めた。櫓の上に座っているというのに、ぼんやりしていてどうする、と己に叱咤してもう一度、海の方角を見据えた。
――ん?
その視界の片隅に。
櫓の下、削れた岩盤の下に、何かが蠢いたような気がして、華音は湯呑を置いた。
「姐さん?」
背中から、隊士の一人が不思議そうな声で華音を呼んだ。華音は身を乗り出して、櫓の下に広がる群青の森を睨みつけた。
櫓の下は暗い森となっている。崖の多い美高灘の地は、海で削れた大地に塩に強い木樹が生えて、そのまま半島が突き出したような地形になっていた。故に海に近い場所まで大地は砂にならず、土と森になり、海岸に黒々とした森が幾つもあったのだ。
その為に見晴らしが非常に悪い。危険地帯が故に、青龍二番隊伍長である華音が直々に志願して駐屯していた。
そして、その櫓の下に広がる黒い森が。
蠢いている。
ざわざわと、細い葉が幾つも擦り合わさるような音が、耳に入る。
けれども、
――何、これ……?
視界に入るまで、生きた気配が届かない。己の勘はそこまで鈍かっただろうか。音は聞こえても、目は人影を感知出来ない。嫌な予感がした。
「全員、戦陣の準備!」
華音が声高く上げた声に、一気に場に緊張が走った。湯呑と筆を放り投げた隊士は、険しい面持ちでそれぞれの得物に手を伸ばす。だが、一様にどこか不思議そうな顔をしていたのは、あまりに静か過ぎたからだろう。華音を同じく、生きた気配を感じることが出来ない隊士たちの表情が、不穏に揺れる。
――不味いな……。
直感的に暗雲を呑み込んだ華音は、眼下に蠢くそれの正体を掴もうと目を凝らした。その華音の耳に、
『――ころして』
「――え?」
「姐さん?」
小さく、不穏な、声が聞こえた。
轟っ!!
「っ!?」
黒々と佇んでいた森が、一息に、襲いかかった。
「――何が起きた?」
噴き上げる焦燥を飲み下しながら、武鎧蓮は今し方腕の中で倒れ込んだ兵士に問いかけた。年明けの各所視察と労いを兼ねて、総ての駐屯所を巡る最中であった。家族に会えない迎春は、嫌が応にも兵たちの覇気を奪っていく。年の瀬から休むことなく都と前線を往復していた蓮は、一人の手に抱えられるだけの文を手にして駐屯する隊士の元を訪ねていた。
雪深い谷を抜け、最前である美高の地に足を踏み入れて。
黒々と影を落とす森を抜けて、崖際の駐屯地に向かう蓮の前に、現れたのは命からがらと息を切らせた自らの隊の隊士たちであった。
破れた隊服と、折れた刀。馬は自らが乗った主を蓮の許へ下ろすと、役目が終わったとばかりに事切れた。腹から流れ出た夥しい血液が、雪の積もる草場に落ちて、寒気のするような匂いを立てた。
朱い。ただ只管に、朱い。
黒に映えた白が、鮮やかに、血の色へ染まっていく。
苦渋が腹の底から滲んでくる。身の血が引いていくのを感じながら、蓮は比較的、傷の少ない隊士を抱き上げて再度、問う。
「たい、ちょう……すいやせん、すい、ません……」
「しっかりしろ。何があった?」
「わ、わかんねッス……。急に、も、森が、襲い掛かってきて……姐さんと、浪崎さんが、俺らに逃げろって……」
――森?
狼狽した隊士の言葉に、嘘や誇張を吐く余裕があるとも思えない。千切れた隊服の縁から滴った滴に、蓮は舌打ちして己の束帯を引き裂いた。心臓に近い箇所へ巻きつけて、簡易的な止血を施しながら、隊士の顔を数える。足りない。明らかに、足りない。
「……他の奴らは?」
「……まだ、逃げおくれて、姐さんたちが、殿は努めるから逃げろって……」
「旦那っ!」
聞き慣れた荒い声に振り返ると、己に付いて各所を回っていた腹心が馬を駆けてくるところだった。彼は目の前の惨状を見ると、小さく呻いて馬を止めた。手に見慣れた式札を持っている。
「旦那っ! 緊急連絡です、華音から!」
「っ!」
蓮はセルリアの手から奪い取るようにして式札をもぎ取った。白樺で彫られた通信用の式が、細く光を届けている。耳に当てる。雑音が酷い。
「俺だ! どうしたっ!?」
「……れ、ん……っ? 良かった、まだ……っ」
耳に五月蝿い雑音の中に、小さく聞き取れる声を必死で拾う。背後で響く騒音が五月蝿い。きんきんと響く金属が邪魔をする。きりきりと、にわかにざわめき出す内心を抑えつけながら、言葉を選ぶ。
「今、どこだ!? 浪崎はっ!?」
「……ごめ、逃げて……。浪崎さん、は、あたしを庇って……他の奴らは、逃がし……美高方面は、危険……ゆきじに、峠を……っ」
「華音! 今、どこにいる!?」
「……ごめん。今まで、ありが、」
高く、悲鳴が耳を劈いた。
心臓を直に握り潰すような、聞いたこともないような。それが、耳に届いた刹那。
ぱきり、と。
呆気ない音がした。
「……」
対にして、片方が割れれば片方も割れるのが式札である。白樺の木目に反して爆ぜ割れたそれは、蓮の頬を掠めて傷を付けた後、半身を手に残して地面に落ちる。草場に小さな音と、塵と消える光を残して。
割れた。
残っていた光が、花弁を散らす華のように、消える。
「旦那……」
「……」
沈黙は一時であった。
「……こいつらを峠の駐屯地まで連れて行け。撤退命令だ」
「旦那っ!?」
呼びかけるセルリアに、抑揚のない声で言い放つ。セルリアは詰まった声を張り上げた。唇を噛み締めた苦い表情が、不本意を物語る。
「旦那、今からでも向かえば間に合――」
「撤退命令だ、早くしろ!!」
憤りを吐き出すような怒鳴り声に、言い募ろうとしたセルリアが沈黙する。
「伽羅背後に何らかの別国が付いた以上、劣勢にさせるわけに行くか! こいつらを連れて、最低限の国境を守れ!」
「旦那……」
「帝が前線まで出られているなら、これ以上の侵略は沙羅の死だ。今すぐ引き返して、鈴原を抜けているはずの帝に伝令を出せ。海岸線を通るなと。……さっさとしろ!」
ぎり――っと、セルリアは手綱を引き締めた。深い悔恨の残る顔で、だが、吐き出された命令には抗わずに馬の腹を蹴った。嘶きを上げて馬は踵を返す。
その音を、どこか遠くに聞きながら、蓮は黙ったまま包帯代わりに羽織の裾を引き千切った。
「……すいません。隊長……っ、すんません……っ!」
手袋の破れた手で拳を固め、鼻を垂らしながらすすり泣く隊士に、労いをかけるつもりで口を開いた。
何も、出て来なかった。
当り散らす為の、罵倒さえ、唇から出ることはなかった。
何かを伝える為の器官である筈なのに、薄く開いた唇からは、何の言葉も出て来なかった。
永佳四年、春。梅の蕾も綻ばぬ年初月のことである――。
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私には絶対かけない重くて、ぴりぴりとした緊張感に溢れた文面に手に汗握る思いでしたよ…。
華音ちゃんがピンチになって、それでも最低限の国境を守るよう決断する蓮くんにしびれましたが、同時に涙が浮かびました。
今行けば間に合うかもしれない。でも蓮くんの立場でそれはできない。
彼の葛藤が痛いほど伝わってきて…。
でもこういうシリアスで暗いのもおもしろいです(`・ω・´)
リア充になるまで耐えるおー…(´・ω・`)
蓮はこういう判断がきっと出来ると信じてる。
でも後から滅茶苦茶後悔して、少しでも考えたら自分が動けなくなってしまうのも解るので、休まないで動き続けたんだと思います(´・ω・`)
重々しいですが、楽しんで頂けたようで何よりです^^