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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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【じゅう、哀しみの最大数(かず)を数えてはいけない】

君の哀しみを因数分解(バラ)してみようか?
幸福(しあわせ)の最大公約数(かず)を求めてみようか?
涙を拭って、さあお発ちなさい、君の途はまだ続くのだから…
  
   
                             「黄昏の賢者」/Sound Horizon




 むかしむかし、あるところに無知で愚鈍で何も出来ない平凡極まりない子どもがおりました。そんな子どもでしたから、家長は子どもをいらない子だと判断し、新たに家を盛り上げるための生け贄に捧げることを思いつきました。それは何百という戦で積み上がった何千という人間の呪詛を子どもの身体に植えつけるという呪(まじな)いでした。
 たったひとりの少女が、その呪いに気がつきました。とても賢く、とても強く、非凡であった少女は、子どものことを大層可愛がっておりましたので、子どもに押し付けられた呪いの半分を自分に移すことを思いつきました。そして同時に無知な子どもから悲しい呪いの記憶をそっと奪い取りました。
 けれども呪いがなくなったわけではありません。子どもが20を迎える前に呪いを解かなければ、子どもも少女も死んでしまうでしょう。
 放浪の旅の果て、少女は永久の魔法使いと呼ばれる化け物に出会いました。深い深い湖の底、永久に生き続け、永久に封じられているはずだった魔法使い。氷のような棺に閉じ込められた魔法使いに少女は問いかけました。
「あなたは何百という戦で積み上がった何千という人の呪いを解けますか?」
 棺の中、瞳を閉ざしたままで魔法使いは答えました。
「私は何千という戦で何万という人間を殺した。解くことは出来ないが、その呪いに打ち勝つことならば容易いだろう」
 それを聞いた少女は魔法使いに自身と子どもにかけられた呪いを打ち明け、力を貸すように頼みました。そんな少女に魔法使いはこう言いました。
「ならばひとつ、取引をしよう。何かを得るためには、相応のものを対価に捧げなくてはならない。だが、お前のその不幸に免じて賭けごとにしようではないか」
 少女は何も最初から無条件に助けを求めようとは思っていませんでしたから、その申し出に頷きました。封じられた水底で、魔法使いはぬらりと煌めく菫色の双眸を瞬かせ、ゆるりと赤い唇を三日月に歪めました。
「ひとつ、その子どもと契ること。それによって思い出を積み上げること。人の持つ想いを積み上げること。積み上げれば積み上げた分だけ、解呪は容易となるだろう。ふたつ、それを行ったら呪詛を半分と言わずにすべてお前の身体に移すこと。そしてみっつ」
 冷たい湖の底で、封じられた魔法使いは少女の身体を指差しました。
「私にお前のその若い身体を捧げること。そのとき、子どもの中のお前に関するすべての記憶も貰ってゆく。……だが、もしその子どもがお前のことを少しでも思い出すことがあったなら」
 私の生命の力はそのままに、お前に身体を返してやろう。
 互いの自由を、賭けようではないか。
 永い時間を封じられ、退屈に飽いた魔法使いの誘いに少女は頷きました。
 少女は魔法使いに言われた通り、子どもが自分の虜となるように振る舞いました。少女は類稀なる美貌を持っていましたし、平凡な子どもはそんな彼女に惹かれておりましたから、2人が深い仲になるのに時間などかかりませんでした。
 やがて来る日。子どもにかけられた呪詛が子どもを喰い殺そうと暴れたその日。少女は子どもの喉元に喰らいつき、生き血を啜るようにすべての呪詛を呑み込みました。魔法使いの言っていた通り、何百という戦で積み上がった何千という呪いは、何千という戦で何万という人間を殺した魔法使いの力には及びませんでした。
 さあ、約束通り、すべての呪詛を吸い取り、紆余曲折ありましたその後で、
 ――……くな、行くな、アル……ッ! アルテミスッ!!
 少女は、魔法使いのお遊戯に勝ちました。めでたし、めでたし。


 まだあの親友が悪魔ではなく、俺が化け物ではなかった頃、常日頃から電波だった親友に言われたことがある。
 曰く、俺の魂は綺麗過ぎて気持ちが悪いのだと。
 元々が超能力者染みていた親友曰く、人間というものは心ないことを言われれば当然のように傷つく、そして怒る、次いで憎み、恨み、辛みや妬みに変化する。大なり小なりそういうものなのだそうだ。
 対して俺は幼馴染の過激すぎるスキンシップや理不尽な暴言はまあ良いとしても、純然たる悪意や憎悪に当てられても同じような態度であるのがヤツ曰く“気持ちが悪い”らしい。一応、怒ったような素振りは見せるが、その怒りはまったく持続せず、大抵のことは「まあ、いいか」で流してしまう。
 器が大きいと誉めるのではなく、“気持ち悪い”と称するのが全く以てヤツらしいと思ったが、たぶん少しだけヤツの見解は外れている。
 何故なら、俺がこの世で最も憎たらしく、最も殺してやりたいと思っている人間は、まったく無知で愚鈍で恥知らずで無垢故に罪深く、ハッピーエンドを疑わずに安穏と幸福を享受していた俺自身なのだから。
 たぶん、そう、おそらくは、それ以上に許せないものが存在しないだけ。


 器から零れるほどのホワイトソース。熱々のグラタン皿の中で、肉汁を惜しみなく溢れさせるミートソース。極めつけにたっぷりかけられたパルメザンチーズの匂いが芳ばしい。そんなラザニアにフォークを突き立てればじゅわりとした熱気と共にこれでもかと詰め込まれた香味野菜の香りが立ち上る。
 さくり、とナイフの音に目をやれば、隣の皿には指の節ほどもある分厚いパンケーキの上、とろけたバターとしっとりとしたメイプルシロップが混ざり合っている。ストロベリー、ラズベリー、ブルーベリーの三色ソースが実に目に鮮やか。意外と丁寧に切り取られたパンケーキの一欠けは、ソースと生クリームを掬い取って女子のぱっくり開けた口に放り込まれた。本来なら「女の子が大口開けて食べるんじゃありません!」とか言った方がいいのだろうが、残念、その役目は俺じゃない。
 たっぷり余韻に浸ること5秒間。
「んまぁ! いやぁ、ここのパンケーキってば本っ当、最高! この近辺なら一番なんだよねーっ!」
「さいですか」
 頬を薔薇色に染めながら(パンケーキの美味しさに。ここテスト範囲)、少女は言う。「あれ援交じゃねーの、大丈夫?」みたいな面してる3席向こうのバカップル。知ってるか。めでたく10世紀を越えようとしている俺より年上なんだぜ、この人。まあ、知っていたら大問題だが。
「ほれ、ほっしーも食べてみなって」
 投げやり気味な思考回路で、勧められるがままに自分の前にある一番シンプルなパンケーキにナイフを入れる。一欠け切り取って齧ると、ミルクとバターの甘さが口の中でふわりと溶けて、くどくなく消えていく。
「どうよ?」
「美味いッスね。奢らされてると思わなければ」
「アナ〇イの香水より安いわ、こんなもん。大体、ずっと音信不通だった君が悪い」
「そーですけど。その言い方やめてください。俺の犯罪者疑惑が加速するんで」
 そこの女子高生、「えー、そんなの貢いでんの、ありえなーい」的な目をヤメろ。貢がないし、貢ぐ気もないから。俺に今あるのはドル紙幣から換金したばっかりの札束が消えていく空しさだけだから。
「で、真面目な話。何やってたのさ、ここんところ」
 ラザニアを切り分けながら(自分で食べる為であって、けしてこっちに分ける為ではない)、割合、比較的、真面目な声色で問われる。友人に「最近、どうよ」と投げかける軽さだが、この声のトーンのこの人に適当な返事をしてはいけない。この人――雅九重という、1000年前と同じ名前をした女子中学生には。
 思い起こせば300年も経っていたんだな、と今さらのように想いを馳せた。


 当時の俺は、黒橡(くろつるばみ)で髪を染め上げ、戦場で最も目立つ為にわざと流行りの装束を被り、気味の悪いブルーベリーソースのような左眼は眼帯の裏に押し込めていた。適当に自分で流した“天狼”の名前は勝手に一人歩きし、いつのまにやら天下を左右する要だとか何だとか勝手なことを言われて、でかい戦場に立っていた。元々、それが目的でわざわざ大海を渡って来たわけだから、それはそれで思惑通りではあったのだけれども。
 そうして“天狼”は適当に天下を収めるのに貢献して、適当に褒賞を戴いて、適当に姿を暗ますだけのいつものパターンだったはずなのだが。
 後の人間の語るところに寄れば、“天狼”という人物は天下分け目の戦で神隠しにあった、なんてことになったらしい。あながち外れではないということは、目撃者の一人や二人は生きていたんだろうか。
 いないない、ばあ。なんてふざけた文句と共に俺の前に現れた目の前の少女たる雅九重は、少しばかり驚いた俺に催涙弾(という言い方は当時はしなかったから、目潰しや目暗ましと言った方が本当は正しいんだろう)なんてものをプレゼントしてくれた。そうして持ち前の術式センスを発揮して、彼女の領域(ある種の神域みたいなものだったんだろうか。特に追及しなかった)に連れて行かれた。
 持て余した力というものは面倒なもので、不意に解いた眼帯の左眼は如実に彼女の肉体の異常さを俺に伝えてきた。例えるなら、そう、心臓は動いているのに循環する血液の代わりに細かな砂が全身を巡っているような。
 生まれ変わっても記憶のある人間というものは存在する。百歩譲ってそう考えたとしても、彼女はあまりにも700年前、呆れたような、少し責めるような、けれどもやっぱり風のような軽やかさで俺の除隊嘆願を受理した“雅九重”過ぎた。
 ぽんぽんあっさり、自分も700以上の時間を生きているのだと暴露した彼女は、やはり700年前に別たれたきり、彼女のままであった。つまり、俺にとっては少し変わり者の姉貴分で、人間観察に長けていて、おそらくこちらの事情の6割ほどは悟った上で、よくよく口は回って。……たぶん、口が回るほど、のらりくらりと交わすのが上手い人。
 他人のために命を犠牲にするような愚かな人ではないけれど、だからといって好き好んで不老の身体を選ぶ人でもなかった。少なくとも、俺はそう思っていた。そうして、幸なのか不幸なのか。人がその摂理に抗ってでもと情動に駆られる、厄介で、ずっと胸に横たわり続ける感情を俺は知っていた。
「ねえ、ほっしー。たまには挨拶のひとつよこしてね」
「……そうですね。気が向いて、そのとき連絡手段が手元にあったら」
 そんな曖昧な口約束をして、俺と彼女とはまた別の化け物としての生を歩き出した。別れて、戦の終わりを告げる法螺貝の声を聞いていると、ふと思い出した。赤い葉っぱが舞う。遠くの山々が橙に染まる。空が高い。
 ――ああ、こんな季節を。
 何と、呼ぶのだったっけ。
 たった2文字で構成される季節の名前も忘れていた“天狼”の偶像は、やっぱりその日のうちに死んだ。


 まあ、長々と回想してしまったが、つまり何が言いたいかというと、彼女曰くの“ここんとこ”はおよそ300年単位のことを指す、ということだ。
 300年前、あえて口を割らせた仕返しなのか、結局挨拶のひとつ寄越さなかったお仕置きなのか、目が吐け吐けと訴えている。弟分の身を案じて、ではなく、きっぱりしっかりそこには好奇心の文字が隠し切れていない。否、隠すつもりもないんだろうなぁ。
 口の中で目の覚めるミントを転がしながら、再び回想。
「あーえっと……あの後どうしたっけ? あー……ヨーロッパで飢饉と内乱が増えた時期だから……そうそう、イングランドでお家騒動に絡んで、戦争する気なかったのにキリスト教同士で喧嘩するんですよ、アイツら。それでも内乱よりはよっぽど犠牲者少なかったですけど。その後、魔女狩りがまた流行り出したんで、でかかったオスマン帝国にしばらく逃げて、どいつもこいつも領土戦争ばっかり起こしやがって面倒でした。そこからは確か、一回アメリカに渡ったら独立戦争始まっちまって……」
「ストップ」
 ミートソースの絡まったラザニアを持ち上げていたフォークが止まった。あ、やばい。片眉が吊り上っている。食事中の会話ではなかったですね、はい。
 ぴしり、とフォークの先を向けられる。大昔、何も知らないガキだった頃、同じように箸を向けられて説教されたこともあったな。懐かしい。
「あのね、ここちゃん、見ての通り来春から花のJCなの。乙女なの。お年頃なの! そんな殺伐とした君の愚痴っぽい武勇伝で心は潤わないの!」
「そんなこと言ったって、今時JCが喜ぶような話の引き出し俺にないですよ」
「仙人か! 女の子を喜ばせる話なんて、昔も今も変わらないよ」
 器用で華奢な指先がくるくるとフォークを回す。マナーもへったくれもないが、それを注意するべきなのも俺じゃない。ここ重要。テストに出ます。
 同じ天才という人種の為なのか、食事中に胸に刺さるような口舌を披露するところは、ほんの少しだけ“彼女”に似ている。似ているからといって、俺も九重さんも愛した半身を他人に重ねるような馬鹿な生き物ではないけれども。
 閑話休題。
 言わんとしていることは何となくわかるが、それこそここ最近の俺には枯渇した話題である。
「コイバナねぇ……。それこそ半世紀前くらいに『妊娠したから慰謝料寄越せ!』っていうガメつい娼婦がいて、ああ、マジでこういう質の悪いのって存在すんのな注意しよう、って感心したくらい?」
「爛れた昼ドラもいらないんだけど? っていうか、それ本当にほっしーがやらかしたんじゃないだろーね。キャー、コワーイ」
「ここ3世紀ほどでもびっくりするくらいの棒読みですね。そんなわけないでしょーが」
 下世話な話になって大変申し訳ないが、残念ながらそれに関しては潔白だ。この化け物の肉体は自分の生死以外のことでは非常に便利に出来ていて、生殖機能の一時的な停止なんて馬鹿げたことも出来てしまう。今でこそ0.02mmの極薄道具だの、女性ホルモンを操る薬だの、便利なものが出回っているが、そんなものがない大昔は男も女も苦労したものだ。
 ちなみにそのガメつい娼婦には、素晴らしいまでの爽やかな笑顔を向けて「そっか。なら、責任取らないとな。一緒に病院行って、そのあとで役所に行こうか」と言い放ったら、面食らってあっさりボロを出した。宣言された時点で焦りまくった男から搾取し続けていたんだろうが、相手が悪かったな。長生き舐めんなよ。
「でも、ちょっと意外だったなー」
 気を取り直してラザニアとの格闘を再開した九重さんが、不意にそんなことを言う。俺が首を傾げていると、フォークを咥えた口が器用に動いた。
「君は馬鹿みたいに一途でベタ惚れだからね。現在進行形で。馬鹿みたいに操立てでもして生きて、今頃枯れてるかと思ったよ」
「……世界全土、恋人に真正面から『最低限、半月に一度は風俗でも構わないから浮気すること』なんて約束させられる経験した男は俺以外に何人いるでしょーね」
「何それそんな約束までしたん」
 したんだなこれが。その呟きは溜め息になって零れもしなかった。代わりに俺は冷める前にパンケーキを切り取って口に運ぶ。ふたつ、知らない土地や店に入ったら必ず何かを味わうこと。三大欲求に数えられる食欲を失くした俺の身体では、そんな意識で繋ぎ止めなければいつしか美味しいも不味いも失くしてしまうだろうから。
「前は、十八とか言ってたよね。それ、いくつあるの?」
「三十です」
「マジか。パねぇな。愛されてんじゃん」
 その通り。奢りでも、自慢でもなく、俺は愛されていた。そしてその愛をきちんと返せていたかといえば、どうなんだろう。結局、そればっかりは最期までわからなかった。
 肉体は化け物だけれども、10世紀、きちんと人間の感覚を保っていられるのは、“彼女”と結んだ三十もの約束の賜物だ。10世紀経っても“彼女”に守られていると考えると少し情けないけれど、胸は温かいからこれでいい。
「まあ、そこまで聞くと納得行くよ。アノ子が君を呼んだ理由もさ」
「へ?」
 パンケーキの駆逐に乗り出していた俺の手からナイフが滑り落ちた。レディを前にマナーがなってないよ、って仕方がないじゃないか。“アノ子”というのは間違いなく、あの悪魔な親友の愛しい(×万)恋人のことだろう。俺は何ひとつ理由を聞かされないまま、半強制的に大和の地を踏んだ。ちょっとした骨休めくらいの気持ちでだ。
 ぼけっと綺麗になっていくラザニアの皿を眺めていると、九重さんは本日最大限に眉を顰めた。
「アノ子が氷河期寸前になるのも解るわぁ。なーんも知らんのかいな。これだから戦闘民族は」
「氷河期?! そんな深刻なの!? あと、俺、別に戦闘民族じゃないですよ?!」
 はあああ、と見るだに面倒臭そうな溜め息を吐かれた。絶賛、溜め息を吐きたいのはスプラッタな輸送方法を以てして人を運送しようとする1000年来の友人に振り回された挙句、ごっそりと旅費が削れた直後の財布を1000年来の姉貴分にさらに薄くされている俺だと主張したい。
 九重さんは先程、俺の間抜け面を盗撮したスマートフォンを取り出すと、何やら数回タップしてこちらに突きつけてきた。
「君のお義父さんとお義母さんが、ここで揃って生まれ変わってるってこと」
 使い込まれた液晶の中には、2枚の画像が同時に映し出されたフォトギャラリー。栗色の髪の利発そうな小学生。もう片方はやる気なさげにipadを眺めながら、これまた億劫そうにおざなりにペンネ・リガトーニを口に運ぶおそらく20前後の白子(アルビノ)の男性。
 どくん、と跳ねた鼓動は、俺を放心させるには十分過ぎた。
「ちなみにるんるんが16になったら結婚するよ」
 噴き出しそうになった俺はなけなしの理性でナプキンを掴んで口を抑えた。口の中のパンケーキを咀嚼、咀嚼、ごくり。呑み込んでから、ここ数世紀でも一番と思われるツッコミを披露した。
「ここは古代でも帝国でも王国でもない現代日本だろ!!!」


 最初におかしいと気がついたのは髪の毛だった。
 甘えたというべきか、不精というべきか。放って置くと何の手入れもしない彼女の髪をいつもの通りに洗っているときに気がついた。気がついてしまった。最後に“彼女”の髪を切ったのは、いつの頃だったっけ。
 幸か不幸か、「おめでとう、3ヶ月です」と医者に告げられたばかりの頃だったから、頭の悪い俺でも逆算は簡単だった。3ヶ月。3ヶ月の間、髪を切っていない。それなのに、“彼女”のやや背中にかかる程度のセミロングは同じ長さを保っている。“彼女”が自分で髪を整える? あり得ない。
 薄ら寒いものが背筋を這っていった。無造作にゴミ箱に捨てられた鋏と爪切りが脳裏を掠めた。そうだ。爪。爪を、彼女の丸い、研究者故に少し汚れが溜まってしまう爪を切ったのは、いつ、だったっけ、か。
 まさか。そんな馬鹿なこと。鼻で笑ってこちらに背を向けた彼女越しに鏡を見て、金槌で頭をぶん殴られた気がした。煌々と朱く輝いているはずの“彼女”の美しい両眼が、鏡の中ではバイオレットに瞬いていた。ゆらりと、ぬらりと、揺らめいて。浮き上がる白くて気味の悪い時計の秒針が、かちり、かちり、と鳴動していた。
 マルグリット・エーデルヴァーレ。
 永久と謳われ、誰にも届かぬ湖の底に沈められていた古代の魔法使い。
 “彼女”の姿をした彼女ならざる永久の魔法使いが、俺に嘲笑いかけてきた、ような気がした。


 最初から虫の良すぎる話だったのだ、と女は言った。
 大国の皇后殿下となっていた馴染みの女は、少しばかり行き過ぎた夫の独占欲を満たす為に、黒いレースがふんだんにあしらわれた白いドレスを纏っていた。白は清廉と純潔(この場合は潔白かもしれない)、黒は女の夫を色に例えた体現。目元には目深なヴェールを被り、昔馴染みでなかったならきっと瞳の色さえ分からなかった。床にまで零れ落ちる蜂蜜色の髪は、切ろうとすると夫が勿体無いと文句を言うので好きにさせているのだという。
 器がでかいと褒めるべきか、それとも一応、親友として彼女の夫を諌めるべきなのか。悩ましく思って(言うなれば逃避して)いると、女はそう言ったのだった。
 シャンパングラスに盛られたリモーネ・マーマレードを金のスプーンで口に運びつつ、格好には似つかわしくない舌打ちをして。
 等価交換として賭けられた強大すぎる力だとするのなら、その力の元の持ち主と同じ現象が起こったとして、まったく不思議ではない、と。
 つまりは、あまりに永い時を生き続け、深い湖の底に沈んでいた永久の魔法使いと同じ現象。代謝の減退。変化の喪失。成長の静止。不老にして不死という誓詞。不死にして退屈という毒に侵される生死。生きながらにして心が殺される現象。
 忌避すべき現象。あってはならない終端、否、愁嘆。
 どうにかする方法は。空気に溺れながら藁を掴もうとする俺に、女は深々と息を吐き出した。
「この世で最も残酷なものは何だと思う?」
「?」
「真実よ。人をもっとも追い詰めるものは絶対的な正論で、人を奈落へと突き落とすものは真実なの。故にそれを口にさせられる私は、まるで悪人のようだわ」
 回りくどいが、要するにそんなことを言わせるな胸糞悪い、ということだ。俺はごめん、と端的に謝った。そんな話をしたということは、女は悪人に徹して真実を告げてくれるのだということに気がついていたから。
 彼女の手は、不意に金のスプーンを投げ出した。そして俺の視線が追いかける先で、クリスタル製の透明なポットを持ち上げた。中には蒸らし過ぎた紅茶がたっぷりと残っている。女はその吸い口をこちらに向けた。
 促されるままに空のティーカップを差し出すと、女は俺が持つカップへ紅茶を注いでいった。今にも溢れてしまいそうなくらい。重力に従って落ちていくその紅い液体をぼんやり眺めていた俺だったが、その行為自体が“真実”なのだと気がついて目を張った。
 あり余る有のすべてを無に帰すことは難しい。けれども。
「選ぶのはあなたたちよ。あえてあなたの味方を装って言い方を変えるのなら、選ばせるのはあなた次第よ」
 十分だった。表が晒されたカードを選ぶのは容易く、また晒したカードを“彼女”に選ばせるだけのカードが、俺にはあった。
「……もうひとつ、訊いていいか?」
「図々しい男ね。そして不躾。何?」
「何で、“あいつ”は俺との子どもなんて作ったんだ」
 ヴェールの下の唇が、苦いものを噛んだように歪んだ。テーブルの上はたっぷりの甘いお菓子で満たされているのに。
 女の発する正答は真実で、俺を奈落の底まで叩き落としてくれるのだろう。そしてその最低な真実は女の口からもたらされた。
「姿を消した後、残されたあなたが自分を追って来られない理由を作るために」
 瞬時に駆け巡った感情の名前を、俺は未だに上手く付けられないでいる。覚えているのは、叩き壊されて砕け散ったティーカップと床に広がっていく紅茶の染みだけだった。
 途方もなく愚かな自分を許せそうになかった。たぶん、きっとこの先も、俺は俺を許せそうにない。

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