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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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鷹羽全章:本章【天武蓮】(青年期~鷹隊の復権と冷泉帝即位まで)

鷹羽全章…一代にして冷泉帝護廷十臣将『飛鷹』の礎を築いた天武家初代当主・天武蓮(享年86歳、改名以前の名は武鎧蓮)に纏わる逸話を後世にて収めたもの。祖となった武鎧家先代『鷹爪』の失脚という逆境より、一代にして名を挙げた功績から、沙羅では鷹を不死鳥と語ることもある。沙羅の変動の時代を生き残り、新しき名を今に残した武人を讃える書として、今代の武家の子の教書となっている。
 
 エセ教本の中から、本稿。ここが一番やりたかったのかもしれない……二番隊発足とゆっきーの即位、第一次極東大戦勃発まで。

 
 
【青年期】
 家族と臣下を一度に失い、天涯孤独の身となった蓮に手を差し伸べたのは、既に師範の資格を頂戴していた海神家と、かの名花の名高い女流武家・天良一族であった。鷹爪軍を目の上の瘤と感じていた当時の白雀帝(天麗院)や皇族府(尚、旧武鎧家分家の多くは先の鷹爪軍解体時に皇族府の私軍の一部となっている。結果的に武鎧家分家が皇族府へ取り込まれた形となった)は、この機に乗じて嫡流である蓮を忌み子として流すことを提案するが、海神家は先の師範の儀に背くとしてこれを諌め、天良家当主天良華林(てんら かりん)は「実績のある若い男児を流すなど、武家の掟に反す」として自ら後見人を名乗り出た。海神家大将・海神龍牙は、彼を養子として迎えることを勧めるが、末弟海神青玻が大家の海神での内部波乱を理由にこれに異を唱える。蓮の身柄は聖の生前の部下であり、蓮の師でもあった砂領都(さりょう みやこ)の下に預けられることとなった。
 この時、天良家は後見人となる代わりとして、武鎧聖と腹心・浅葉恭二郎が携えていた対の刀“二爪”を譲り受けたとあるが、後の記述で蓮が一隊の長に立つ際に、海神家より返還されたと矛盾した記載がある。この刀の所在の不明は記述の間違い等、諸説あるが、天良一族に纏わる異伝を纏めた百花物語の中にある当時の天良家大姫であった華姫(天麗??年~不明(諸説有))の手記から、秘密裏に天良家から持ち出され、海神家に保管されていたのではないかと言われている。
 
「今日、浪崎様方御三家(鷹爪軍一軍を率いていた将たちの三家。正確には浪崎家、月森家、時石家)の方々が本家を訪れた。浅葉様が鷹爪邸の焼け跡にてご自害されたという。祖母様は、鷹爪軍は明日にでも解体されるだろうと仰っていた。浪崎様たちにも、養うべきご家族がいらっしゃる。それは理解していたはずなのに、恥ずべきことに憤ってしまった。
 だって、あの人はまだ生きて居られるのに。あの人が支えとして居られた皆が、あの人を置いていってしまうようで。目が覚めたとき、あの人は孤独になられてしまうのだろうか。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。あの人は私が忌むべき存在と知っていながら、手を引いてくださった。あの笑顔が私にとっては喜びだったのに。
 祖母様は御三方が預けられていった二振りの刀を蔵へ入れて置くように、と申された。けれど、本当にそれで良いのだろうか。今は輝きを失っている刀。この刀はあの人の脇にあって然るべきものだと思うのだが」
 
「初めて祖母様の言い付けを破ってしまった。いけないことだと分かってはいたけれど、不思議と心は穏やかだ。
 あの人はまだ目覚めない。いつ、目を覚ましても良いように夜を通してついていることにした。義姉様や薊には反対されたけれども、私のちっぽけな身の上などより時折魘されている彼の方が心配だ。目が覚めたときに、あの人が独りぼっちではないように。でも、私一人がいて果たしてあの人の心の慰みになるだろうか。たくさんの人に囲まれて、笑ってくれていた人だから、それだけが心配だ。あの人からすべてを奪ったのが誰であっても、あの人だけは連れて逝かせない。連れて逝かせてなるものか」(百花物語)
 
 後に天良家は家督を初めとした全財産と後宮や武家に置ける権限のすべてを、武鎧蓮へと譲渡しているが、その際に、大姫であった件の華姫もまた彼の正室へと嫁いでいる。天良家が蓮の後見人となったのは、華姫との仮祝言が条件だったのではないか、との説もあるが、権力を失っていた子供に過ぎない蓮に世継ぎの姫を嫁がせる決断をするとは考えづらく、この説は一般的には否定されている。
 
 こうした後押しの許、武鎧蓮は一将の子息としてではなく、一兵卒として、翌年正式に青龍軍二番隊への入隊を許される。この時、齢十二歳。翌々年には同隊が一番隊へ昇格すると同時に、隊内で三位の地位を持つ伍長として立身。翌年冬、青龍一番隊副隊長を務めていた篠田家嫡子篠田円が同盟国への留学の為、除隊すると、同隊隊長海神龍彦(後の東久迩東宰府青龍軍大将)は、白雀帝や周囲の反対を押し切って自らの片腕として彼を起用。この時、齢十四。青龍軍一番隊の重役として、初めて参内を許される。
 五臣将の重鎮と天麗院、斎宮等が集まる神在月の定例秋議の最中、紅葉に色づく後宮の庭園を眺めていた弘徽殿の女御(天麗院の側室にして、耀遵大公の母。生前の聖とは度々、治世や後宮の在り方を巡って対立していた)は参内した蓮を揶揄してこう詠んだ。
 
「千切れ散る 紅葉の錦 うつくしき 焔のごとく 誰(た)が櫛にも似ぞ」
(千切れて散り落ちる錦のような紅葉の美しいこと。まるで炎のように、またどなたかの髪のように)
 
 母の蘭姫が同盟国の外国人であった為に、蓮は夕日のような緋色の髪(後に高名な歌人が紅鷹の美丈夫と謳っている)をしていたとされる。家人ともっとも近しい臣下が炎を要因に他界して僅か三年。傷の癒え切らぬ少年にはあまりに無遠慮な歌であった。しかし、当の蓮本人はこれを諌めようとした青龍軍大将を制して、すぐさま次のように返歌している。
 
「庭の面は からくれなゐに 染まりけり 幸いにして 櫛火に非ず」
((帝やあなた方の御殿の)庭は(紅葉で)鮮やかな赤に染まっている。この紅が私の髪のような炎でなくて本当に良かった)
 
 当時の沙羅において、歌は歌で返すことが礼儀であり、また如何に早く歌を返すことが出来るかということが重用な才覚であった。この句は蓮の髪を紅葉に例えて皮肉を述べた弘徽殿の女御に対して、今、この御殿を覆っている紅葉のように、いずれ炎=己の髪があなた方の天下を焼き尽くすだろうと比喩してみせたのである。これに対して弘徽殿の女御は声を詰まらせ、御簾の裏より立ち去ったという。歌に対して激昂や罵り等で答えることは法度であり、恥であった為である。
 この出来事が当時の斎宮・東嘉門院鈴鹿内親王と未だ白稚皇子親王殿下の身であった冷泉帝(瑛泉帝)永佳院の目に留まる。地へ落とされた鷹の名の再起は目前にまで迫っていた。
 
 
【鷹隊の復権と冷泉帝即位】
 齢十五年、春。蓮は自らの上司である海神龍彦を立会人として、とある要人と杯を交わすことになる。皇家白稚皇子親王殿下の身にあった冷泉帝永佳院である。
 当時の沙羅後宮における勢力図は、皇に皇族府と院政、それを守護する軍部として姫兵衛士の他、護廷十臣将を置き、さらにその内に青龍、朱雀、白虎、玄武、黄竜の五臣将に重きが置かれていた。中でも青龍軍海神家の権力は殊更に大きく、神宮、禁裏、市井の守護を一手に引き受けていた。それはとりも直さず、一部の高位の家軍を重用し、大家が皇を囲うように守護する体勢となっていた。さらに軍部には発言権こそあれど、様々な有事の決定権は無きものとされていた。同時に白雀帝は世継ぎを考えてはいたものの、春宮の御身体は薄命の状態にあった。しかし、春宮の嫡子であるにも関わらず、冷泉帝永佳院の身体の虚弱を理由に、白雀帝は世継ぎには相応しくないと考えていた。
 そのまま捨て置けば、後宮は世継ぎの動乱に呑み込まれる。そう判断した海神家と斎宮・東嘉門院鈴鹿内親王が白羽の矢を立てたのが蓮であった。時代は天麗から永佳へ。肥大化する各所の権力と偏り過ぎた後宮の勢力図を正すには、新しき若き力と確かな志を持つ人間が不可欠であった。
 永佳元年。冷泉帝の即位と時をほぼ同じくして、武鎧蓮は冷泉帝直属の家臣として青龍軍第二番隊、通称“鷹隊”と呼称される一隊を率いることとなった。拝命の儀にて、蓮は父が携えていた刀“飛刀”を用い、天麗院から与えられた朝廷に従順を誓う拝命の冠を斬って捨て、皇位を継いだ冷泉帝より新たに冠を賜ったとされる。
 侮蔑と唖然の場の中で、蓮は全軍に轟く声音で高々とこう表明したという。
 
「我、鷹の爪を継がんとせし者なれば、真に刻んだ志を示す。我、鷹の羽を宿さんとせし人なれば、誠に猛る理想を示す。我らは軍属に非ず、称賛礼賛を求めず。我、既に雛鳥に非ず。志、頂上たる蒼穹に翔ばん」
 
 儀廷には継いで“鷹隊”として集った鋭士たちの勝ち鬨の声に呑まれたという。その中には代々、巫女を排出する家系として高名な後宮貴族九条家の大姫・詩(うた)姫、蓮の後ろ盾となっていた天良家大姫・華姫、また鷹爪失脚時に鷹の御旗を離れていた浪崎晃、月森靜、時石八束の姿もあった。
 この精鋭の頭として、また自らの片腕として蓮が副隊長に選出した将が、当時、皇族府の名門鐡登羅家の客将・鐡登羅光陽(??年~永佳三十一年。後に鐡登羅家当主として皇族軍を率いる長となった。尚、この名は没後に蓮が戒名の一部として与えた名であり、公文書には本名を抹消された形跡がある)である。光陽の出自や素性等は、未だ謎に包まれており、書記官が文字とした辞世の句と思われる句を一つ残すばかりで、直筆の日記や句等も発見されていない。ただし、この時期に蓮が著したとされる詩「鷹羽Au revoir」にて、光陽を指していると思われる節には、彼が何らかの罪人であったことがほのめかされており、本名の抹消はその為の措置と考えられている。蓮は立隊と同時にかつての忠臣・浅葉恭二郎が携えていた刀“翔刀”を彼に授け、以降、晩年に光陽が刺客の凶刃に倒れるまで腹心として背を預けていた。
 この頃書かれた軍記には、軍命、院命に反す狼藉の衆と変わらぬと鷹隊を卑下する記載も多くある。しかし、他軍の者と思われるある一人の隊士が次のような手記を残している。
 
「大公殿(耀遵大公と思われる)の御命令により、三が日程、軍部は馬を出すことが禁じられた。何でも同盟国のさる高貴な御方がお忍びで都まで参られるらしい。それについて物々しい警備は無礼に値するとのこと。確かにそうかもしれないが、都の軍門をすべて閉ざして皇族府の私軍を置く、というのは矛盾ではあるまいか。斯様な時に外より蛮族の類が入り込まぬように、とのことであるが、どうにも煮え切らぬ思いはある」
 
「外の早馬より、静養に出られていた皇族府に連なる大家の姫殿が蛮族に襲われたとの報があった。護衛に着いていた客将が御身をお助けして居るも、多勢に無勢の状況であるらしい。軍部の上方はすぐさま主上に申し出たらしいが、警備体制を敷いた大公殿が後宮に戻らぬうちは待機せよ、とのこと。一刻を争うという時に、悠長なことを、と思うが厩は皇族府の私軍の方々に守られている。皇族府の私軍の方々を傷付けるわけにもいかず、多くの兵が二の足を踏んでいる。ふと、厩から目を離すと、厩より離れて件の鷹の雛が柱に凭れていた。何を思っているのかは分からぬが、何故か、じっと何かを待っているように見えたのは気のせいだろうか」
 
「唐突に顕礼門の方が俄かに騒がしくなった。物見台の隊士が、大層慌てて鐘を叩いている。まさか、都の門が閉じられているというのに堂々と奇襲してくるような馬鹿はないだろう、と思っていたら堅硬な顕礼門と承明門の閂が、一度に斬り飛ばされた。門番に立っていた隊士たちも転げている。何が起きたと思えば、馬に跨ったかの名花の名高い大姫が大門を突破してくるところであった。軍の厩はすべて封鎖されているはずなのに、まさか外の皇族府の私軍から拝借したのだろうか。在り得ない。一同が唖然とする中で、ただ一人、彼の鷹雛殿が動いた。身を引いた華姫様の馬に跨ると、群れる軍衆を睥睨して雷のごとく声をお出しになった。
 
『我は既に雛鳥に非ず! 我らは軍属に非ず! 天命に準じて人命を奪い、何が将兵たるか! 人心在りき将のみ、我に続け!』
 
 御自身の刀で櫛を結っていた紐を落とされた。壮兵の皆様が息を呑む音が聞こえた。若輩ながらお見かけしたことはなかったのだが、その御姿は亡くなられた旧鷹爪軍の御大将そのものであったと後に聞いた。鷹雛殿はそのまま門より出でていった。即座に厩の方が轟音と共に騒がしくなった。
 青龍軍三番隊に属して居られた壮兵、浪崎壮士が獲物の大斧で厩の戸を破っておいでであった。浪崎壮士は皇族府私軍の方々を退けると、馬に跨りて言った。
 
『……若輩に先を取られて、真、恥ずべきこと。我が意に殉ずる意志のある者は鷹雛殿……いや、若鷹殿に続けぇ!』
 
 一人、また一人と手綱を取っていった。いつのまにか私自身も手綱を取っていた。気が付いてみれば、一小軍ほどの兵が浪崎壮士に、いや、若鷹殿に続いていた。鷹の隊の所業だろうか、都の南門は既に破られていた。
 後日、白雀帝より直々の咎め立てがったらしいが、どうあったのか、軍命に背いたにも関わらず、青龍二番隊の解体には至らなかった。それどころか、入隊を志願する隊士が急増しているらしい。かくいう私自身も今の地位を捨て、志願するかどうか迷っている。確かに今の位に居れば安寧ではあるだろう。しかし、あの鮮烈にして苛烈な一喝は私の心臓を貫いて動かざるを得ない衝動に駆られている」
 
 劇的な時代の変化と共に誕生した鷹隊は、その後も時に冷泉帝の勅命として、時に軍命に逆らいながら、同胞を増やしていった。順風であった鷹隊の勝ち鬨であったが、更なる逆風が蓮を襲うこととなる。
 永佳三年、春。第一次極東戦争勃発。海を隔ててかねてより抗争の絶えなかった伽羅国との戦が本格化したのである。時の斎院や冷泉帝は、徐々に悪化していく伽羅国との情勢を憂い、何度も話し合いの場を持とうとしていたが、あえなく国交断絶の事態となった。
 新帝となって早々の国交悪化に、冷泉帝はひどく憂いを綴った書や歌を残しているが、開戦調印の直前、蓮は私的文書として彼に文を贈っている。
 
「千を超える時を重ねて、我ら(沙羅国と伽羅国のこと)は互いに深く怨恨を産んで来た。互いを隔てる海の底には、千を超える怨嗟が眠っている。怨恨の鎖はどこかで断たねばならぬもの。我、清浄の刀として怨恨に刀は振らぬ。されど、後世の憂いを断たんと欲するならば、我ら、喜んで御旗を掲げる所存にある。元より、我らは礼賛・称賛を求めぬ鳥の衆。人殺しの誹りを受けることあたわず」
 
「わたつみの豊旗雲に入日さし こよひの月夜さやけくありこそ」
(大海原、豊かにたなびく雲に光差す落日。今宵の月夜は美しくなるだろう)
 
 添えられた句は、海原を前にして戦に赴く時に歌った歌とも、書簡と伽羅国の遣いの文とばかりを睨んで夜を徹している友人を慮って、文字ばかりでなく月を見るよう促した歌とも言われている。
 最前線は逢坂湾に伽羅を望む美鷹の地。設置された駐屯所衛兵の中には、鷹隊一番槍伍長華姫、旧鷹爪軍衛兵浪崎晃らの姿があった。
 
 
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