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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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Restoration_~沈黙の空~ (壱)

※飛鷹発足秘話。副隊長セルリア=ヴァージア就任話。第一話。

 

 いつの間に降り始めたのか。耳元がやけに五月蝿いと思った束の間、ほとんど感覚のなくなった身体を穿つ水滴に気がついた。鼻につくのは錆の悪臭と湿った土の匂い。身体の輪郭があやふやなのは、冷えきっているせいなのか、それとも血が足りていないのか。
 ――両方、か。
 指先を動かすと、肩に激痛が走る。肩をやられたのか、腕を壊したのか。どちらにしろまだ動く。それが幸なのか不幸なのかはわからない。手を伸ばすと、ぬるりとした感触の水溜まりの中に握り馴れた剣の柄があった。破けたグローブ越しに握ると、まだ生温かい返り血の温度を伝えてくる。恐怖はない。また温もりも感じない。
 全身に浴びたことのあるそれは、自分の目にはとてもありふれていて。それが命の欠片なのだと気づくのは、それを流す身体が永遠に動かなくなってからだった。
 ――とうとうか。
 自分の番が来た。思うのはそれくらい。因果応報。自業自得。自然淘汰。
 それでも手が届いた剣を支えに立ち上がったのは、見苦しい悪足掻きだ。いつでもそうやってかじりついて生きていた。だがそれは、国の為とか家族の為とか、そんなご立派なものではなくて。褒め称えたい程、不公平な人生に神様の言う通りの終止符を打ってやるのが気に食わなかったから。
 要するにそれだけの、つまらない生なのである。
「……」
 がしゃがしゃと耳障りな音が、雨に紛れて鼓膜を震わせる。喧しい爪先が探るのは自分の死体だ。
 ――晒してやるものか。
 奴らに晒すくらいなら、自ら海の藻屑に還ってくれる。奴らは土産に自分の身体の一部をもぎ取っていくのだろう。そしてそれは、奴らが一日と長く生き延びる糧になるのだ。そんな礎になるなんて御免被る。
 口内が血の香で犯される。伝う雨に、赤い雫が混じり合う。このまま水の中に溶けてしまえたら、早い話なのかもしれない。そんなことが起こるはずがないと、自分が一番良く知っているはずなのだが。
 “いたぞ!”
 “向こうだ、追え!”
「ちっ……!」
 雨でくぐもった声が耳に届く。深く考えるまでもなく、その声は自分を追い立てる声だ。さすが死肉を漁るハイエナは鼻がいい。
 ――何とか……国境さえ、越えれば。
 片足を引き摺りながら。欠片ほどの意識で体を奮い立たせながら、後一歩を踏み出した。

Restoration_~沈黙の空~

 長雨が続いている。馬上で手綱を握り、愛用の駿馬を走らせながら、武鎧蓮は重い空を見上げた。
 沙羅には梅雨がある。四季には数えられない、僅かな合間の季節だが、晴れ間の見えない時節だった大気は重たく、気が付けば汗と湿気で隊服が肌に貼り付いている。春には軽快に駆けていた駿馬も、この季節は気が乗らないのか、身体を支える関節が軋むのか、普段よりどこか歩みが遅い。
 それでも同年代の馬乗りよりは卓越した速さと乗りこなしで、蓮は通い慣れた屋敷の門戸を潜った。気が付いた舎人がすぐに駆け寄って来て頭を垂れる。
 走らせた駿馬の顔を労うように撫ぜると、蓮は鞍から身を下ろした。
「親王陛下と若様がお待ちです。奥の間に」
「……」
 舎人はそう言って蓮の馬を引き、屋敷内の厩へと向かう。少しごねた駿馬だが、蓮が軽く身体を抑えてやると大人しく舎人の後について行った。間を置かず、屋敷の中から見覚えのある女中が姿を現して、手招きをした。
 導かれるまま、女中の後について行くと、広大な屋敷に佇む奥の間まで案内される。裏庭に咲く紫陽花だけが彩となるような、ひっそりとした一室だった。女中は役目を終えたとばかりに丁寧な所作で一礼して、去っていく。茶も歓迎も不要と悟っているのだろう。
 女中が廊下から消えるのを待ってから、蓮は障子の前に膝を突いた。
「……武鎧家嫡流、青龍一番隊副隊長、武鎧蓮、参上致しました」
「入れ」
 障子の向こうから低い、端的な声が返って来る。音を立てずに障子を開くと、上座に腰を下ろした黒髪の少年の表情がぱっと輝いた。
「蓮、久しぶり。元気だった?」
「息災であります。親王殿下におかせられましては、御健勝の程心よりお慶び申し上げます。……少々だけ久しいな、雪路」
 定型通りの挨拶を並べた後に、少しだけ砕けた言葉を残すと、少年――神代雪路は嬉しそうに面を上げた。今一度、頭を垂れてから障子を閉じる蓮に、少年の傍らに座していた男が大袈裟に溜め息を吐いた。
「相変わらず一挙手一投足が堅苦しいな、お前は。乗馬と刀の方は柔軟なくせに、困ったものだ」
「俺まで門と障子を破るようになれば、お困りでしょう。龍彦隊長」
「口も一丁前に回るはずなんだがな。解らん奴だ」
 下座に腰を下ろすなり、飛んで来た台詞に揶揄を含んで返す。蓮にとっては直属の頭だ。普通ならば、揶揄など混ぜれば首が飛ぶところだが、生憎、この御仁にとって多少の揶揄は薬だということを知っていた。
 飛ばした揶揄が、再び溜め息になって返って来る。副隊長として片腕の任を負う以前から言われ慣れていた事だ。今更、気にはかからない。
 一礼して、蓮は上座に正座をして待つ雪路の面を見上げた。
「御所の方が多忙と聞くが、息災か?」
「うん……。最近、修学院にも顔を出せなくて、ごめんね。少し、父上のお加減が良くなくて。お祖父様のご機嫌も、あまり」
 雪路は苦笑を漏らしながら、最後の言葉を付け足した。蓮は僅かに眉間に皺を寄せた後、同じような苦笑で返す。機嫌で主上が務まるとは、随分寛大な国だと、浮かんだ皮肉は飲み込んで置いた。
「今日は龍牙様が遠乗りの名目で連れ出してくれたんだ」
「忙しい中、すまないな」
「いいんだよ。元はと言えば、僕が言い出したことだもの」
 日焼けのない白い顔に、僅かな疲労を滲ませながら、しかし雪路は声を弾ませて笑った。親王殿下と宮仕えの隊士として、また学び舎を共にする学友として、2通りの挨拶を済ませた蓮と雪路は言葉を切って龍彦に視線を向ける。
 彼は交互に2人を見比べると、懐に手を遣り、すっと簡素な紙切れを差し出した。黒墨で書かれたのは、護廷一小隊の役職名と隊士名。頭の隊長の名には、“武鎧蓮”の名が刻まれている。
「以下8名。お前の手足だ。好きに使え」
「有難う御座います」
 蓮は頭を垂れ、雪路が紙を受け取って覗き込む。綺麗な顔の眉間に、少しだけ皺が寄った。
「龍彦さん、その、元・鷹爪の隊士たちは……」
 ひくり、と蓮の眉が動く。頭を垂れたまま、言葉を待った。溜め息の間もなく、龍彦の声が降ってくる。
「話はしてみたがな。元・鷹爪将隊の幾人かは頷かなんだ。浪崎光流、月森靜、時石八束。共に鷹爪では要人だった強者だったが、此度の話には静観に徹する、とのことだ」
「……そう」
 陰った口調で頷き、雪路は小さく肩を落とした。蓮は面を上げると、片膝をついたまま口を開く。
「各人、共に今は亡き鷹爪――父・武鎧聖と肩を並べ、刀を振るった御仁。入隊して日が浅い若輩の下に仕える気にはなれますまい。如何な父の血を引こうと、いや、引いているならばこそ、彼らの目は甘くはないでしょう」
「そうだな」
「俺自身、未だ父上程の器量に達してはおりません」
「春に青龍の隊代表として武大会で頂点に立った人間の言葉とは思えんな、蓮」
「……人を従える器量と、刀を握る腕とは、また別物かと」
 蓮の返答に龍彦は鷹揚に頷いた。
「理解している為らば良い。浪崎らがお前の下には就けぬ、と仰られたのも、今のお前の器量がその程度のものだということ。だが、親王殿下のお目に留まり、我が青龍大将が新発足される二番隊の頭としてお選びになった、それもまたお前の才と力だ」
「はい」
「己が実情と力量とし、事実を受け止めよ。だが、自信を持たぬ事と謙虚な事とは別だ。言うまでもないが、胸を張らねば兵は付いて来んぞ」
「……御忠告、有難く」
 蓮は再度、頭を下げる。龍彦は彼の頭を上げさせてから、傍らの雪路を見る。細面の少年は細い両手で白い紙を持ち上げて、未だ、眉間に皺を寄せていた。蓮と龍彦が言葉を待っていることに気が付くと、彼はこほん、と小さく咳払いをしてから面を上げる。
「部隊の粗方については分かった。僕は軍部の詳細については疎い人間だから、人選は蓮に、調整は龍牙様と龍彦殿に一存しようと思う。ただ……」
 雪路は手にしていた紙を蓮の視界に入るように広げた。彼の指がやんわりと指す一箇所。隊長の役職名と名前が刻まれた、そのすぐ下の欄。不自然な空欄が出来ていた。
 それを見て、雪路のそれよりも深く、蓮の眉間に皺が寄る。龍彦はそれを受けて、真顔のまま首を振った。
「問題は副隊長だな」
「……申し訳御座いません」
 龍彦が呟くとほぼ同時に、蓮は謝罪の言葉を口にした。
「副隊長の任に就く者は、俺の権にて決めさせて頂きたいと、大将並びに隊長に我儘を申しておりました」
「構わん。己に仕え、尚且つ懐刀となる者だ。自ら選ぶのが道理というものだろう。俺自身、前副隊長、そしてお前を一番隊副隊長に据える際には、叔父上に自らそう献上した。……して、見つかったのか?」
 理解を示すと同時に、龍彦は蓮に問いをかける。蓮は苦い顔のまま、ゆっくりと首を横に振る。
「信を置く者がいない、というわけではないのですが、生憎、未だ……」
「華音や、君と共に道場で学んだ者たちは? 此度の隊に君に付き従って名乗りを上げてくれた彼らだ。君にとっては、最も信用の置ける者たちじゃあないのかい?」
「……確かに、天良華音、アルティオ=カムイ、九条詩亜。共に幼き時より刀を交わして来た隊士。人選の際に自ら名乗りを上げ、俺の贔屓目を抜いても、腕も才も一つ抜けたところのある者たちと認めております」
「なら、」
「しかし」
 蓮の声が雪路の言葉を遮った。眉を顰め、何かを逡巡するような眼差しで面を上げる。
「適材適所。恐れながら、彼らの才は、副隊長という任を与えるには、不向きかと」
「そうだな。俺もそう思う。それに加え、彼らではまだ未熟も目立つ」
 腕を組みながら、龍彦が蓮の進言を肯定する。雪路は唇を引き結んで、空欄の目立つ薄墨の紙を食い入るように見つめた。その表情は晴れないままだ。
 次の言葉も見つからず、黙を貫いていると、視線を落としていた龍彦が顔を上げて蓮を見る。
「叔父上の戯言と取って構わないが」
「?」
「……あきらを。つまりは大将の娘たるあやつを、二番隊副隊長に据えたら良いのではないか、と」
 聞き覚えのある名前が出た。その名前に、雪路の表情がほんの少しだけ強張る。蓮は横目にそれを視止めてから、口を開いた。
「彼女は護廷には入らずに、皇宮警吏に仕えているとお聞きして居りましたが」
「此度の二番隊、あきらの御護りする雪路親王殿下直々のご要望により発足されるもの。為れば可能であろう、と叔父上が言い出してな」
「……」
「俺個人の意見だが」
 増々、強張っていく雪路の顔を見ることもなく、龍彦の言葉が続く。蓮は無言のまま視線を彼に合わせる。
「あきらは確かに才長けて、一門の信頼に厚い。魁姫だの何だのと名を取り、何かと目に留まるだろう。だが、副隊長を任ずるには些か荷が重いと思っている」
「……」
「あやつはまだ若く、幼い。感情に斑がある。頭に置いては、下が動揺しかねんと思うのだが……蓮、お前はどうだ?」
 問われてしばしの合間だけ思案する。固唾を飲み込んだ雪路が、伺うようにこちらを見つめてくる。
 障子の向こうの紫陽花の葉に溜まった天露が、小さな池に垂れて、雨垂れの中に大きく音を立てた。
「確かに、あきらの人心に与える先導力、刀の腕、共に才に秀でたものとお見受けします。海神の名、現青龍の娘との肩書が周囲に与える名の力も、利にはなるかと」
「ほう」
「しかし……」
「良い、言ってみろ」
「……恐れながら、隊長が仰られた通り。加えて彼女は背を振り返らぬ、何事にもかけても目に留まる華々しい気性。俺としても信は置いて居りますが、決して俺の背越しに、この都世を見ようとは思いますまい」
 龍彦は整った顎に手を触れながら、ふむ、と一つ頷いた。それが肯定の意を漂わせていたことに、雪路が胸を撫で下ろしたのが分かる。同時に、少しだけ面が陰ったのが気にかかるが、場には出さないよう、黙を貫く。
「言う通りだ。俺の意見、今のお前の弁を踏まえて、叔父上は俺が黙らせておく」
「有難う御座います」
「だが、蓮。俺としても、もう少々、時をやりたいのは山々なのだがな」
 釘を刺すように、厳しい声音で龍彦は蓮の名前を呼んだ。彼が眉を上げると、龍彦は上座の雪路に視線を移す。水を向けられた雪路は、はっと顔を上げて、眉根を下げた。小さく肩を竦め、どこか申し訳無さげに薄い唇を開く。
「今度、御所で青龍の上覧試合があるでしょう?」
 蓮は一月後に迫っていたその祭日を思い出す。都、ひいては皇宮を警する護廷十臣将配下たる軍の幾つかは、度々、沙羅国主である主上の前で己が腕を披露する。表向きは上覧試合というただの見世物だが、軍部同士が別個に行う催し物。ただ刀と腕だけがぶつかり合う試合のみで魅せてもつまらぬものであり、かと言って飾り立てただけの実の無いものは不興を買うだろう。
 要は何らかの華々しい興と、純粋たる軍としての沽券と、両方が試される場なのである。
「……その日、此度の青龍二番隊――“鷹”を、主上にお披露目したい」
 雪路は真っ直ぐに瞳を向けて来た。蓮は口内に溜まっていた固唾を飲み込む。
「此度の青龍上覧試合。通常通り、俺と他隊隊長との組手試合。叔父上自身に刀を取って頂く大将試合。共に行うつもりだが」
 龍彦の視線が、床に広げられた白い紙に、そして蓮へ向けられる。鋭く。質量の伴った圧力のかかる視線に、蓮はこっそりと奥歯を噛んで耐えた。
「その前座に、二番隊発足の鬨を上げたい」
「今度の上覧試合……。主上――お祖父様が直接、軍部を目に留められる数少ない時機。これを、逃したくないんだ」
「……」
「蓮」
 眉間の皺を戻さないまま、押し黙る彼の名を龍彦が呼んだ。一度、背を向けると、彼は両手でそっと背後に寝かせていた一振りの刀を蓮の前に置く。
「――っ」
 銀の鞘。柄に描かれたのは、爪を振り被る鷹。見覚えがあった。咄嗟に己が腰に下げる刀の柄を抑える。その蓮の握る柄には、目の前の銀の刀と全く同じ鷹の紋が刻まれていた。ただ一つだけ異なるのは、蓮の刀の鞘は鈍く沈んだ金、ということだけだ。
 己の一振りと寸分違わない刀。その名前を、蓮は知っていた。
 己の腰に提げたのは、只一つの父の形見だ。かつて“鷹爪”と称された、その偉大な将の爪そのものである。為らば、此れは。
「『飛爪』、『翔爪』。お前の父の聖殿が所有していた二爪の刀。一爪は聖殿御自身が振るわれていた。お前が差す『飛爪』。もう一つがここにある“翔爪”だ」
「……はい。『飛爪』は、父が不幸に見舞われた才、焼け跡から俺の許へ届けられました」
「それは聖殿がもう一爪を預けていらっしゃった鷹爪副隊長、浅葉恭二郎殿よりのはなむけだ」
「しかし、浅葉殿は既に」
「ご逝去為される直前に、お前が青龍に仕えていると知って叔父上に届けられていた。然るべき時節に、お前に返してやって欲しいとな」
「……」
 蓮は酷く繊細なものに触れるかのように、銀の鞘に触れた。だが、刀紐がくすむ程に隊士の腰に在り、そして使いこなされた刀はずっしりと重かった。掌に食い込む刀から、刀自身の験が指先を伝う。確かめるように鞘を抜く。曇りも、刃零れも、ない。それだけ丁重に扱われてきた刃だと解る。
 父が亡くなり、後を追うようにその懐刀であった副将殿が病で急死したのは、もう3年以上前の事である。世話になった記憶はあるのに、無視出来ない理不尽な噂に怯えて、葬儀に線香の一本も立てる事が適わなかった。
 だと言うのに。
 ――いや。
 これは、父の才覚が生んだ光明だ。自分はまだ、その父が造り上げた恩恵を受けているに過ぎない。今は亡き『翔爪』の元の持ち主が望んだのは、さらにその先だ。それを蓮に流れる血に期待を寄せたのだ。
「聖殿は己が所有する名刀のうち一つを、己の懐を護る者へお与えになった」
「……」
「今度はお前が、その刀を握るべき者に渡してやれ」
 かちん、と合せた鍔と鞘が澄んだ音を立てる。蓮は無言のまま、『爪』の2つ目を腰の刀差しに通した。重い感触が直に伝わって、心臓を貫いた。
 蓮は畳の上に膝をつく。上座に座る雪路、傍らに腰を置く龍彦を交互に見遣ると、深く頭を垂れる。
「……此度の二番隊長の任、次いでこの様な計らい、恐悦至極に御座います」
「慎重は結構。だが、勝どきを誤るでないぞ。俺も親王殿下も、お前の働きに期待している。忘れるな」
「御意。――必ずや、新たな鷹の名を高く掲げてご覧に入れます」
 蓮は面を上げる。その瞳が見るものは最早、小さな室の壁ではなかった。龍彦は普段のように小さく笑い、雪路は唇を引き結んだまま頷いた。
 空には未だ、寒雨の続く曇天が広がっていた。


「蓮」
 不意に名前を呼ばれた。慣れ親しんだ声の高さと、女特有の軽めの足取りは、振り返らなくとも誰何を伝えてくる。それでも整えていた鞍から手を離して首を回すと、曇天の下にも鮮やかな金色の糸が視界に入った。
「華音……?」
 蓮は訝しげに駆け寄ってくる少女の名を呼んだ。華の白絹で一括りにされた金の髪が、応えるようにふわりと踊った。蓮と同じ、青龍一番隊の隊服に身を包んだ彼女は、すぐ目の前まで来ると澄んだ碧眼でこちらを見上げてくる。
「はー、良かった。間に合った」
 梅雨という夏を告げる曇天が広がっても、明朝の空気は肌に冷たい。未だ出勤する隊士も少ない早朝の青龍の修練場である。
 厩から連れて来た馬に鞍を嵌め、手綱を引いた瞬間の出来事だった。
 彼女は遅刻するような質ではないが、明らかに常時の出勤には早すぎる。何をしに来たのかと問う前に、目の前に丁寧に包まれた糧袋が突き出された。
「最近、毎日この時間だって? どーせ、おばさん起こすのも忍びないからとか何とか、朝餉も不十分なまま行ってるんでしょ? 道中でちゃんと食べて行きなさいよ」
「……それだけの為に来たのか?」
「……ちょっと。わざわざ弁当渡しに来てあげた人間に、そういうこと言う?」
 つい、飛び出した言葉が相当気に食わなかったらしい。華音は唇を尖らせながら、剣呑な目で睨んで来た。そういうつもりでもなかったのだが、どうにもこういった機微は苦手でならない。
 彼女の手から糧袋を受け取って、逆の手で金の頭を軽く撫でた。
「悪かったな。礼を言う」
「……別に。っていうか、子供扱いしないでよね」
 剣呑な目を引込めたと思えば、今度は頭を撫でる手が気に召さなかったのか、ぱしり、と弾かれる。痛いわけでもなく、彼女のこういった行動自体がいつものことなので、今更溜め息を一つ吐くだけだ。
 糧袋を荷の中に落とすと、蓮は手綱を引いて馬上に自分の身を引き上げた。華音が自然な動作で駿馬の顔を優しく撫でる。馬は気持ちが良さそうに一つ、嘶いた。
「……今日も穂野ヶ潮?」
「いや、今日は安瀬の方面に行ってくる」
「大将が愚痴ってたよ」
「何だ」
「最近、蓮が地方警備や視察ばっかり引き受けて、俺と仕事してくれない、って」
 先程よりも深い溜め息が一つ、漏れる。青龍大将は気のいい敬するべき武将だが、多少、茶目っ気が過ぎる。告げた華音もどこか苦笑いだ。それでも多くの人間を従えてしまうのが、あの御仁の天性の才なのだろうか。解らない。
「まあ、でも……」
「……何だ?」
「ううん、何でもない。あの、さ。蓮」
「?」
 華音は言いかけた言葉を飲み込んだ。明朗快活な彼女にしては珍しい。深夜に帰還すると言え、遠征に心残りを作って行くのも忍びない。再度、問いかけようとした、そのときだ。
 馬の嘶きが重なった。
 修練場の門を抜けて、数頭の馬が首を出す。先日の雨に濡れた土が、重たく舞い上がって黒く斑紋を描いた。
 蓮と華音は同時に顔を上げた。そして徒党の先頭の馬に跨っていた男に目を留めて、肩に緊張を走らせる。
 大振りの武骨な戦戟を背負った壮年の男。刈り上げた髪には白髪が混じるものの、堂々と馬を乗りこなす姿と使い古された隊服には武人としての威厳が備わっている。壮年ではあるが、力劣らず。太い二の腕と節くれだった大手で手綱を握る。傷だらけの顔面についた目が、きろり、と動いて蓮を視とめた。
 蓮の跨る駿馬の眼前に、徒党の馬が止められる。蓮は壮年の男の眼光を正面から受けることとなった。
「浪崎壮士……」
「武鎧の小童か」
 互いに知らぬ顔ではなかった。蓮が青龍一番隊に入隊する、その以前から。
「ふむ……優面の小僧が、ちとマシな面構えをするようになったようじゃの」
「……お褒めの言葉、有難き。では」
 蓮は横目に華音を振り返ってから、手綱を引いた。駿馬は命じられた通りに、緩やかに歩を進め始める。
「待て」
すれ違うその刹那、太く力の籠った声が静止をかけた。手綱を引く。蓮の駿馬は数歩だけ歩んだ形で止まった。背越しに重い声が響く。
「……先の時分、青龍殿が直々に参られた。此度、貴様が頭を務める隊に籍を置かぬかとな」
「聞き及んで居ります」
「青龍殿は亡き聖様の背を貴様に負わせる御心算のようだ。だが、儂は違う」
「……」
「聖殿は百に一、千に一。まこと剛毅な武と精錬なる心を兼ね備えた御方。人生に一度、見えたとしたら、二度とは無き御仁よ。いくら彼の御仁の血を継ぐとしても、ただ倣う事で手に入る器量ではない」
「……」
「鷹の気高き正命、己が懐刀も決せられぬ小童の背に負えるものではないわ」
 淡々と紡がれる、重厚な声が背中に叩きつけられる。吠えた声でもないのに、びりびりと伝わるその圧力に、壮年の武人の威厳と貫禄を思い知る。
「壮士、お言葉ですが……っ」
「天良の娘か。如何な武家の寵愛を受ける一族にあっても、定めに私情を挟んでは天良の名が泣くぞ」
「壮士……っ!」
「やめろ、華音」
 語ろうとする華音の声を留めて、蓮は再び手綱を引いた。頭上に広がる曇天から、冷気が降ってくる。雨になるのが早いかもしれない。
「壮士は裸一貫より武を志し、鷹爪の伍長として身を立てられた。貴殿からすれば、海神、並びに天良の大家から後ろ盾を得た俺は、ぬるま湯に浸かっているも同然でしょう」
「……」
「身に血は宿せど、確かに俺は父ではない。しかし、」
 小さく、蓮の駿馬が唸る。高く鳴らした蹄に、浪崎が連れていた隊士の馬たちが、駿馬を避けるように身を寄せた。
「父が起てた鷹の志、欠片としても抱くのは貴殿と同じ」
「……何?」
「旧き羽根を顧みず、翔ばんと駆けずには居られぬが鳥たる鷹の性分かと」
「……」
「では」
 手綱を引く。駿馬が嘶く。蹄が高く土を抉って、駆ける音を響かせた。
 一陣、風を巻いた駿馬は瞬く間に門の向こうに消えていく。跨った主の背中もまた、早朝の薄霧の中に消えた。
「……小童め」
 浪崎は馬上から門を振り返り、自分のものより遥かに低い背を見送った。
 彼の馬の傍らに駆け寄った華音は、形の整った眉を吊り上げて顔を上げる。
「壮士」
「天良の長姫。何用か。如何に親しい関係にあろうと、お主が口を挟むことではないぞ」
「いいえ、壮士。お一つだけ。これは天良のみならず、青龍そのものの沽券に関わるかと」
「何が言いたい」
 つい先程まで人懐こく笑んでいた華音の碧眼が細められる。日の光の眩しい蒼穹の瞳から、冷たく他を飲み込む深い藍へ。深く、鋭く透き通った女の瞳に、浪崎は顔を顰めた。彼の連れていた隊士の一人が、背筋の奮えに唾を飲む。
 凛と高い声が刀となって、少女の唇をつい出た。
「我が天良は情のみで、個人の盾にはなりませぬ。それはおそらくは、青龍の許たる海神様とて同じこと」
「お主は、あれはそれ程の器量を持ち得ると言いたいのか?」
「……」
 華音は語らずにただ礼だけを返した。応えるものもなく、安易な言葉で応えられるものでもないと知っているからだ。
 丁寧な礼の後に、少女はくるりと踵を返し、修練場へと去っていく。浪崎は馬上でその小さな背を見送りつつ、重く厚い息を一つ吐いた。
「……面白い。為れば翔んで魅せよ。雛鳥めが」


 思った以上に雨足が早い。
 冷気を降らせる曇天を気にしながら、蓮は申し訳程度に均された街道に馬を走らせる。畦道の多い森林を進路に選んだのは、幸か不幸か。重たい泥の馬場にはなっているが、目的とする地方集落は目前まで見えていた。この低い山の稜線を越えれば、目の前は大海である。
 春の花が落ち、生え揃った若葉に薄霧の雫が吸い付いて、駆ける蓮の隊服を湿らせていた。
 ――間に合ったが……今期以降、この道は止めた方がいいな。
 国境に迫る程、治安の目は悪くなる。加えてこの環境では、霧と雨雫で体温が下がってしまう。もう少し山道が長ければ、霧は雨に変わり、更に視界を塞ぐだろう。遭難や行き倒れとはいかないまでも、地元の山賊連中の目に留まれば、雑魚でも多少厄介だ。
 矢張り、大海に近い程、密入国者は絶えず、小競り合いも激しい。
 ――都を出ないと解らないものだな。
 無論、地方の辺境と言えど、警邏が屯所を置いていないことは無い。だが、届けられる情報には限りがある。物資輸送の被害や、小競り合いの報せが届けられたところで、詳細な環境情報が届けられるわけではない。
 ――視界を開かなければ、後が絶えんな。
 都に帰還したら、進言の必要があるかもしれない。淡く考えながら、手綱を操る。
 稜線を下り、霧が晴れ始めた、その視界に、
「……?」
 霞んだ黒い影が見えた。牛車だ。霧避けか、荷には母衣がかけられているが、中身は藁と樽らしい。輸送の牛車なら特別、珍しいものでもないが、何故こんな街道の真ん中に停止しているのか。
「お侍さま!」
「!」
 疑念をかけたと同時に声をかけられた。霧の中で初老の男が手を振っている。両脇には輸送護衛兵が、槍を構えていた。
 手綱を引いた蓮が駿馬を止めると、隊服に気が付いた輸送兵が慌てて頭を垂れた。何だ、本物か。
「お、お勤め御苦労様です! 都の五臣隊の御仁でしたか……!」
「沙羅護廷十臣、青龍一番隊副隊長、武鎧蓮。何故、物資輸送の牛車がこの様な場所に停止している」
 名乗ると輸送兵はさらに背筋を緊張させた。改めて青龍の名に畏怖と敬を覚える。定規のように背筋を伸ばした輸送兵は、頭を垂れたまま早口に吐き出した。
「じ、実は付近で賊の小競り合いがあったらしく、その、道脇で不審な者を見つけたのですが、何分重傷を負って居りまして……! 自分たちでは判断に余っていたところ、貴殿が通り掛かり申したもので……!」
「不審?」
「その、身に付けている物からして沙羅の国の者ではなかろうと……。昨今、海を渡って参る密入国者が増えて居ります故……」
 蓮は小さく息を吐き出して、馬を下りた。見れば輸送兵たちの背後には、予備の母衣が広げられ、その端が僅かに赤く染まっている。一般人と思われる御者の顔はかすかに青白い。
 困惑した表情を浮かべる輸送兵に頷いて、進み出る。
 母衣に寝かせられていたのは一人の男だった。想像したよりも若い。歳はおそらく20に届かないだろう。栗毛の髪と沙羅のそれとは明らかに違う白い衣が、赤黒く染まっていた。見ただけで己の血と返り血が混じっていることが解る。
 ――息はある。が……。
 細い。どこまでが返り血なのか知らないが、顔色の悪さから相当の血を失っている。気温の低い畦道に転がして置けば、呆気なく死に至るだろう。
 逡巡を繰り返していると、ふと、男が握った刀――否、剣が目に入った。
 ぽっきりと半分に折れた刃にも、赤い痕がこびりついている。よく御者が腰を抜かさなかったものだ。何気なく、男の強固に握られた指を離させて、黒い布に巻かれた柄を持ち上げる。
「……?」
 触れた瞬間に、違和感があった。華美ではないが、造りの良い柄。巻かれているのは黒い、滑り止めの当て布。
 ――だが、しかし、これは……。
「……」
「副隊長殿?」
 押し黙り、眉を顰める蓮に、輸送兵が恐る恐る声をかけてくる。暫く答えずに思案した後、蓮は腰当の布を裂いた。出来る限り丁寧に、折れた剣の柄を包む。
 身を怯ませる輸送兵と御者を振り返り、それなりに立派な造りをした御者を見上げ、言った。
「……手を取らせてすまない。悪いが、村まで運んで貰えるか」

 

弐へ


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鷹な始まりを

しかとこの目に焼き付けたい。<><>
ボロボロのセルに胸がきゅんきゆんしますた。瀕死のイケメンほどおいしいものはありませんね。
とにかく香月さんの書く海神系男子かっこよいです。君たち本当にうちの子かwww
パパとたつやんの奔放ぶりに蓮くんのスルースキルが更に磨きあがっていけばいいね、と思っています(笑)滅茶苦茶迷惑かけていそうwww

かのちゃんの良妻賢母ぶりに黒い気持ちがほんのり湧きますた。
次は治療編ですね! イケメンのイケメンによるイケメンのための看病正座待機してます(`・ω・´)

以上、寒くて長袖カーディガン羽織ってもガタガタなうは小春からでしたー
汝、雛鳥に非ず

頑張ります(`・ω・´)
ぼろぼろで瀕死のイケメン、美味しいよね!!
海神系男子大好きです。ぜひ、うちの若くなさそうでやっぱり若い男子を扱き使ってやってください。どうせきっと良妻賢母に癒されて快復します(笑)。

イケメンのイケメンによるイケメンのための看病(名言)。

いきなり寒くなりましたね。風邪召されませんようくれぐれもお気をつけてー^^
誤字ったwww

鷹「の」始まりですね!
セルの活躍期待してます!

バイトのおにゃのこが来れなくなったらしくまさかの紅一点(笑)
さすがに呑み会で紅一点はきついのでカラオケでオンリーワン決めて六時頃帰ろうと思います。

カナリア歌ってきま!
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