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汝、鷹の爪を継がんとせし人ならば、真に刻んだ志を示せ。 汝、鷹の羽を宿さんとせし人ならば、誠に猛る理想を示せ。 証明せよ。汝、雛鳥に非ず。頂上たる蒼穹を翔べ。
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【ひとつ、新しい国に入ったら名前と姿を変えること】

形を失くしてく 曖昧な真理に
立ち向かうその正義を護って生きるから
  
  
                                   「black bullet」/fripSide



 拝啓、母さん、父さん。お元気ですか。……とは言いながら、風の便りで天国へ行ってしまったんだなー、ということは知っていたりします。本当は喪主になるのが嫡男の務めなんでしょう。線香1本、供えに行かなかった俺を、みんなは怒ってるんだろうなー、とちょっとは思います。
 さて、突然ですが、母さん、父さん、ごめんなさい。ご報告したいことがあります。

 どうやら俺は死ねない化け物になってしまったみたいです。

 ……まあ、欠片も後悔はしていないので、それだけなんですけど。


【平凡少年が化け物になった理由】


「あー……」
 朝方、顔を洗う度に鏡が目に飛び込んできて、そこにあるものに無意識に声が漏れる。最初こそ、綺麗だな、でもその綺麗なものが自分にくっついてると思うと気持ち悪いな、零音辺りが見たらこれでもかとこき下ろすんだろうな、と止めどない想いが駆け巡ったが今はそれだけ。人間とは慣れるものだ。
 人並みには見られると信じたい顔と特徴的でもない鳶色の左目。なのに、右目だけが水晶のような菫色に輝いている。染めやすいように脱色した髪は少し傷み始めていた。大昔は母親譲りの割と綺麗な栗色だった気がするが、正直よく覚えていない。そしてもっとも可笑しいのは、この顔がいつまで経っても皺を刻まないこと。
 青年と大人の中間をした顔のまま、俺の刻は動かない。
 スーツケースを開いて、ずらりと複数並んだ染毛剤の上で指を動かす。久しぶりにシンプルな黒、にするか。おそらく一番目立たずに居られる色だし。いやでも敢えてかけ離れた色にした方がいいのかもしれない。
「……新しい服も買わないと」
 新しい土地の土を踏むときは新しく髪を染め直し、全身の服を買い直す。名前も変える。変化がない生活はやがて人の心を殺すから。そう言って課せられた約束は、かれこれ10世紀ほど守り続けられている。染毛の文化は日々浸透、進化していくのに、たぶん、染めたことのない色はないんじゃないだろうか、と思う。
 迷いに迷って一番減っていなかったピンクアッシュの染毛剤を取り出そうとして、手を止めた。
 久しぶりにいくらシャワーを使っても宿代がかさまない国に来たのだから、じっくり2時間ほどお湯に浸かるのもいいかもしれない。そういえばこの国はそういう文化を持っていた。
 昨夜はチェックインと共にベッドに飛び込んでしまったから、まだ外の景色さえ見ていない。僅かに跳ねる心(こんな感触があるうちは、俺も人間なんだなぁと思う)のままに、閉めていたカーテンを一気に開放した。容赦のない日差しが目に沁みた。
「……300年ぶり、かぁ」
 平屋が並び、芝居小屋に長蛇の列が出来ていた街は、すっかり高層ビルがにょきにょき生えたコンクリートジャングルになっていた。


「お国に帰らないんですか?」
 どんっ!
 ライフル銃のスコープに映った満面の笑顔に、反射的に照準をずらした。ぶくぶく太った男の禿頭を狙った弾丸は見事に外れ、男のすぐ脇の壁に突き刺さる。サイレンサーをつけていたとはいえ、その急襲に周囲が気づかないはずはなく。
 がたがたと俄かに騒がしく、罵声を飛ばし合いながら“襲撃者[スナイパー]”の存在を探す集団のぎらつく目が光る。アサルトライフル、小銃、拳銃、カランビットナイフ、プッシュダガー、バタフライナイフ。物騒な諸々が取り出される音が耳に届く。
 呆然と頭上を見上げる。そこには夜闇の中、何のタネもシカケもないのに逆さまに宙にぶら下がった青年が、にこにこと微笑んでいた。艶やかな黒髪と透き通るように白い肌。場にそぐわない燕尾服に白いマフラーを巻いた奇妙な格好。
 どこだ、探せ、ぶち殺せ、のスラングが響き渡る中でつうっ、と冷や汗が背中を伝った。
「お前、何してんのっ?!」
「恋しています!」
「知ってるけどだから何?!」
「あ、来月で1025回目の記念日なんですよ! お祝いしてください!」
「何の記念だよ記憶してねーよお前にやるものなんざ何もないわあああっ!」
 ボロボロになった外套を翻して、滑り落ちるようにマンホールの下へと身を投げる。下水道だけあって、刺激臭が鼻をつくが構ってはいられない。角を曲がった直後に、がりっ、と鉛の弾丸が石壁を削る音がした。
 全力で駆ける隣を、逆さにぶら下がったままの青年が音もなく付いて、否、憑いてくる。
「で、お国には帰らないんですか?」
「この状況でその話題続けろと!?」
 照準なんてずらさずにそのまま頭ぶち抜いてやれば良かった。どうせ文字通り貫通するんだし。
 後方で怒声が響いた。続いて銃器のハンマーが下ろされる微かな音。舌打ちをして足を止めると、両手を振りかぶる。先程まで手にしていたライフル銃は空に消し、弾いた光と共に現れる重みを受け止める。刹那、握っていたのは2本の長さの違う剣だった。1本は刀にも似た長剣。1本は古びた細工の短剣。無駄に鍛え上げられた動体視力は、迫り来る弾丸の軌道を捉え、一閃、二閃、三閃。
 雨の如く降り注いだ弾丸は、すべてすっぱりと薙ぎ払われて下水の中に沈む。
 ちなみに暗闇からぶら下がった青年は弾丸の軌道上に居たにも関わらず、ぴんぴんして手を振っている。当たり前だ。弾丸はすべて青年の身体をすり抜けて貫通しているのだから。実に恐ろしくは上級妖魔。銀の弾丸でも殺せない悪魔の顔を恨めしく眺めながら、両手を翻すと今度は二丁のリボルバーが掌に現れた。
 引き金を引く。射出された弾丸は銃を乱射していた相手の肉へ喰い込む。目の端で鮮血が咲いた。下水に何かが落下する水飛沫。悲鳴が轟く。かちり、と瞳の中に浮かんだ時計の秒針が時を刻んだ。
 弾丸が尽きるまで打ち続け、弾倉が切れれば新しい弾丸を呼び寄せて自動装填。こんな小技が出来るようになったのはいつからだったろう。思い出せないけれど、今はそんなことに頭を使っていられない。
 薄いながらも弾幕を張りながらじわじわ後退する。新手の仲間が現れる前に逃げ切らないとやばい。死なないけどやばい。死なないといったって、捕まって腸を引き摺り出されたり、頭と胴体をさよならさせられたりしたら、死にたくなるくらい痛いのだ。
 この仕事は失敗だ。結局収入はすずめの涙の前金だけだけれども、好き好んでそんな痛い状態になるほど俺はドMじゃない。
「もう完璧なんですね、転送魔法。初めは飴玉ひとつ動かせなかったのに、しばらく見ないうちに大きくなってしまって。男の子の成長って早いんですね」
「何で誉め方が親戚のおばちゃん風なんだよ?! ホント、何しに来た!?」
「そんな! シリウ、今はリゲルさん、でしたっけ? 親友に会いに来るのに理由が必要なんですか? 私たちの絆ってそんな脆かったんですかっ?」
「親友に多大な迷惑かける登場するんじゃねぇええっ! ってか、親友ならこの状況何とかしろよ!」
「え? 何とかって、うーん? 上の地面を崩落させてここ一帯押し潰せばいいですか?」
「前言撤回! お前、何もするな!!」
 悪魔か。そういえばこいつ悪魔だった。唾を飛ばしながら思う。ああ、ここに敵しかいなくて良かった。頭に血が上ったらしい犯罪組織の一団は、こちらの吐き出す言葉などいちいち気にしていないようだった。
 でなければ、俺は誰もいない空間に向けて延々、ツッコミを入れている頭のおかしい人に見えている、はずだ。
 ……いや、化け物なのだけれどね。
「というかリゲルさん。それだけ上達しているなら、自己転送[ゲート]で逃げられるんじゃあないですか?」
「最初に言えよっ!!!」


 星が零れて来そうな満天の空の下。月が綺麗ですね、と彼女は言った。
 俺は平々凡々な人間で、特別甲斐性があるわけでもなく、評価できるところといったら“努力も才能の内”という言葉に縋るくらいしか取り柄が無い人間だった。
 対して背中越しに星を眺めていた彼女は、生まれながらにして天才で、その上で向上心も半端じゃなかった。何でもないようなことが、彼女にかかればたちまち大発見になったりした。逆にどれだけでかい大事も、些事として簡単に片づけてしまったりもした。誰にも思いつかないような発想と方法で。そして贔屓目でものを言うなら、誰よりも綺麗だった。一目惚れの初恋をしてしまった平凡人間の色眼鏡が入っていることは分かってはいたけれど。
 それでも俺にとって彼女は、月よりも、宝石よりも、綺麗な女(ひと)だった。
 少なくとも俺の方はそんな風に彼女を想っていたから、それを聞いたときは心臓が止まりそうだった。現に息は数秒止めていたと思う。俺は乙女か。でもそれくらい、舞い上がっていた。
 きっと振り返ってみても、彼女は顔色ひとつ変えていないだろう。勝気とか、気丈とか、そんなもの全部ぶっ飛ぶくらいのトンデモな性格をしていた彼女だから、告白ひとつに可愛らしく頬を染めたりなんてしない。そんなことは分かっていた。でも、彼女が男に向けてみだりにそんな発言を吐き散らすような愚鈍でないことも知っていたから、心から、思ったのだ。
 じゃあ、俺、もう死んでもいいや。
 背中に触れる体温が愛しかった。好きだった。あいしていた。
 なんでもないその一瞬が、一生の記憶になるような気がした。
 流れ星で願い事が叶うというのなら、この時が永遠に続けばいい。
 そう、思った。


「お国に帰らないんですか?」
 36回目。
 心の中でカウントして、俺は泥だらけの外套をビニール袋に突っ込んだ。ばさばさの金髪に、足元まで包み隠す古臭い外套を羽織ったリゲル・アトリアという偶像は今夜死ぬ。また新しい姿と名前を考えないといけない。面倒だな、とは思う時期はもう既に過ぎていて日常の一環と化している。
 硬いベッドに埃の溜まった床。壁は薄くてプライバシー機能を果たしていないし、窓ガラスなんて薄っぺらどころか割れたまま放置されている。それでも雨露を凌げる屋根と用を足せる場所があるだけ、この地域ではマシな方だって理解している。
 星は見えなかった。そういえば黄砂が多いとか何とか言っていたっけ。
「おくにに、かえら、ないん、ですか!」
「お前近い! そしてしつこい!」
 濡らしたタオルで身体の泥を拭っていたら、まさしく目と鼻の先に端整な顔が突きつけられた。畜生、無駄に整った顔しやがって。貼り付いた笑顔がまったく崩れないところを見ると、反応してやらないと帰らないつもりらしい。
「今度はまた何だよ……。随分、押しが強いな。普段は俺がどこに行ってもノータッチなくせに」
「1000歳越えの年寄りなのに行先心配して欲しいんですか? 最近、流行の構ってちゃんですか? あれは少年少女があるから需要があるんですよ何様なんですか?」
「今現在構ってちゃんはお前の方ですけどぉ!?」
「っ?!」
「その『私に需要がないなんてありえない何言ってんだコイツ』的な目やめろ」
 俺が化け物になって、目の前のこいつが悪魔になって、知らない間に約1000年余りが経っていた。
 1000年経っても変わらない。否、1000年経って元から微妙に世間一般からズレていた性格が、どんどん悪化している自称“親友”を一睨み。睨んだところで分厚い面の皮が破れないことは知っているのだけれど。
 せめて深々と溜め息を見せつけてから、憮然と唇を尖らせる。
「大体……居場所もないし、待ってる人間もいないところなんて、帰るって言わないだろ」
 ドスッ!
「はぐッ?! 何で殴った?!」
「べ、別にアンタの切ない系シリアス顔なんて誰得とか思ってやったわけじゃないんだからね!」
「それただお前の感想述べただけだろ、ツンデレ風に言う必要がどこにあった?!」
 昔は少し可愛い弟分くらいの気持ちだったのに、いつのまにやら器用に白々しく頬を染めるなんて小技を会得している親友にタオルを投げつける。濡れたタオルは立派に頭を砕く武器になるのだが、コイツの場合はべしゃりと床に落ちるだけ。そんなチート野郎はそれはそれはとても楽しそうに、面白おかしそうに笑い続けた。
「さて、こうしていても夜が明けてしまうので、そろそろ真面目に理由を言いましょう」
「最初からそうしろよ、ったく。で、結局どうしたんだよ」
「ええ、実は……」
 実に楽しそうな笑みからきりりと真剣な表情を作った悪魔は、居住まいを正して声を潜めた。黒い燕尾服に腰ほどまである白いマフラーという何ともふざけた格好だが、真面な顔をすると空気まで引き締まる気がするから、さすがは元・皇族だなと感心する。するのだけども、
「あちらにいる私の可愛い恋人が『そろそろ身体バラバラにしてでも連れて来い』って言っていたので!」
「そういう奴だよお前は! 知ってた!」
「そういうことで、リゲルさん。五体満足で帰国と個別包装で輸送、どっちがいいですか?」
「実質一択だろもうやだお前らいい加減にしろぉ!!」


 以上回想。
 そんな複雑でも何でもない理由で俺はおよそ300年ぶりに日本という国の土を踏んだのだった。土じゃないけど。コンクリだけど。いやぁ、もうまったく思い出してもくだらねぇ。
「まあ、休憩にはちょうど良かったかもしれないけど……」
 電光掲示板に原色の文字が躍るスクランブル交差点を人混みに紛れて歩く。アッシュピンクにポイントメッシュなんて目立ち過ぎるか、と思ったけれど周囲を見渡せば純正な黒髪の方が目立っている。むしろばりばりにワックスで固めた金髪が闊歩しているし、無数のピアス穴は目に痛いし、素顔が分からないばさばさ睫毛は人種違いに見えた。大丈夫か大和国民。
 ――いや、そういう娯楽が蔓延ってるうちは平和なんだろうけど。
 空っ風が意外に寒くて、防寒ロングコートのファーに顎を埋める。憲法第9条をノーベル賞に、今の政権を交代へ。誰かがメガホン越しに叫んだ主張は、高遮音性イヤホンを突っ込んだ群衆の耳には届かない。ほっ、と吐いた溜め息は誰にも拾われずに灰色の空に融けて消えた。
 1000年間、良いことも悪いこともあった、と言えば当たり前で簡単なんだけれども。
 俺がまだ人間の子どもだった頃。皆が馬鹿みたいに苦労して手に入れた世界平和が踏み壊されたときは複雑だった。創り上げるのは死ぬ想いだったというのに、壊れ始めたが最後、俺の知っている世界はドミノのように倒れていった。それから何年間、人間は同じことを繰り返していっただろう。その間に人間は人間を殺すことに確実に特化していって、結局、今現在になってその殺意のデカブツを手のひらで持て余して怖気づいている。俺にはそんな風に見えた。いや、現在進行形で見える。
 300年振り、と言っても国土を踏んだのが300年振りであって、300年この国に何の干渉もしていなかったわけじゃない。遠い昔の海の外の地図が燃やされたときも、“カミカゼ”とか呼ばれる鳥型が黒々したクジラに突っ込んだときも、人間を壊し尽くす小さな少年が落とされたときも、俺は常にどこかで戦っていた。味方であったときもあったし、敵であったときもあった。
 戦争のおかげで食い扶ちには困らなかったし、時代が進む度に俺の手は新しい武器を握り、馴染み、いつのまにか平々凡々な才能しか持たなかったはずの男は化け物扱いされていった。事実であったから、特に否定はしなかった。おかげで魔女狩りの標的になったり、異教徒の造り出した生物兵器にされたり、いろいろあったけれど、心臓に杭を打たれても、首と胴体が離れてもやっぱり俺は死ななかった。
 そんなことの繰り返し。疲れなかったと言えば嘘になる。生まれた頃の平和な時代が過去になっていく度に、思考は人間らしいそれから離れていった。言うなれば摩耗した。それでも戦うことをやめなかった。この化け物の力で終わる戦いがひとつでもあるのならと、至って勤勉に俺は奔走した。
 だってもしかしたら、その土地には“彼女”が生まれるかもしれない。ひとつでも多く戦争を終わらせられたら、その分だけ生まれ落ちる“彼女”が平穏でいられる確率が上がるんだ。
 それだけのことで、今日まで化け物は生き永らえているのである。終了。
「にしてもアイツ、相変わらず物騒なことばっかり言いやがって。一体、何の用だよ」
 俺を呼び付けたのが親友の悪魔曰く彼の可愛い(の一千乗っていくらだ)恋人だと言うのなら、まずはそいつのところに行かなくてはいけない。眼力で軽く5,6人は殺せそうな少女を可愛いと形容するあの悪魔の目は大丈夫かと疑いたくなるが、恋の盲目に関しては他人のことを言えないのでとりあえず黙るに限る。というか口にしたらいろいろ怖いし。
 ――しかし。
 問題たるのはそこまでの道中だ。術式だの、武術だの、二次元の産物と捉え始められている昨今、人混みに紛れていれば化け物でもバレることはほとんどない。が、さすが旧時代の都というべきか。その少女がいる場所は妙にカンのいい人間が溢れていたりする。
 妖怪扱いされて討伐されたりするのは御免だ。現代の技術力付け焼刃な陰陽師や術師に倒されるような身体ではないけれど、お札だって妖刀だって痛いものは痛いのだ。地味に。
 さて、そんな中でどうにかバレずに少女の許まで行くとなると、
 かしゃり。
「やっだー☆ 何それ、シーくんかっわぅぃーいーっ♪」
 出来るだけ綿密に、と立てかけた俺のジャパンライフはたった1回のシャッター音で風化した。
 電化製品大国の真ん中でスマートフォンを構え、若葉色した髪の(たぶん)小中学生くらいの女子が猫っ口でせせら笑う。指差すな。否、差さないでください、お願いします。
「こ、九重、サン……?」
 300年前、紅葉色の鮮やかな髪を靡かせ、妙齢のしなやかな絹の手で俺の頭を撫でたはずの風の申し子が、バーバリーチェックのマフラーをリボン巻きにしてそこにいた。


 もう、死んでもいいや。
 それ以上なんてないと思ってた。幸せだった。嬉しかった。だから、浮かれていた。
 指通りが良くて透き通るように綺麗な彼女の髪を洗うのが好きだった。
 寝不足気味なところに蜂蜜を垂らしたホットミルクを淹れると、少しだけ緩む頬が好きだった。
 大雑把で欲張りで横着で、俺が食べていたおやつを欲しがって口を開けてくるのも好きだった。
 はにかみもせずに仁王立ちで「妊娠したから責任取りなさい」なんて、彼女らし過ぎて笑ってしまったけど、やっぱり好きだった。
 勿論、口では文句を言った。言ったけど、心から嫌だったり、面倒だったりしたわけじゃない。彼女とのキスもハグもセックスも、全部を覚えている俺は実は相当に重いのだろうな、と思う。その重たい愛を後生大事に抱き締め続けて、そればっかりを見つめていたから、気がつかなかった。
 ある日、ゴミ箱にモノが捨てられていた。
 結構、古くなっていたものだから、気分屋の彼女が捨てたのだろうと思った。また新しいものを買えばいいか、と思った。別段、高価なものではなくて、他のものでも十分代用が効くものだったから、俺は気がつけないまま素直に捨ててしまったのだ。
 あの日、ゴミ箱にあった散髪用の鋏と爪切りは愛用品だったのに。

 

 

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